終末にはコーヒーを ④
そうして、僕の願いは驚く程簡単に叶った。
悪魔が大量にあるコロンビアの袋を手にとって二、三度上下に振ると、いつのまにか袋の印字が「キリマンジャロ」に変わっていた。
よくある罠で、印字だけを変えて中身はそのままになっていたりしないかと疑ってみたりもしたが、封を切って香りを嗅げば間違いなくキリマンジャロのそれであり、悪魔の頂上的な力が本物であることを僕は改めて実感させられた。
ブラジルとロブスタについても同様だった。ガサガサと袋を降るだけで、望みの豆が手に入った。
封を開けて確認してみるとすべて生豆の状態だったので、僕は焙煎から始めることにした。
ここの開発者の中にコーヒーフリークがいたのは間違いないようで、調理器具の中には焙煎用の手網も用意されていた。
台所のガスコンロをつけて焙煎を始めると、悪魔が「どうしてガスコンロの炎はよくて自分の炎には消火装置が反応するのか」と文句をつけてきたので、あらかじめ台所のセーフティは調理温度くらいでは反応しないことを話すと、ならばシェルター全体のセーフティを切っても問題ないだろうとごねてきた。
どうやら彼女にとって炎というのは人間にとってのゲップやらクシャミのようなもので、出さないと具合の悪いものらしい。僕は妥協し、あらかじめシェルターに設けられていた喫煙室のセーフティを解き、「火吹き室」と定めて悪魔に提供することにした。
最初はわざわざ場所を移動するなんてまどろっこしいと文句を垂れていたが、生理的欲求には勝てないらしく暇があれば火吹き室へと向かって炎を出していた。
悪魔の要望に従い、なるべく苦味が強く出ないよう、それでいてコーヒーのコクは失わないように豆は中炒り、ハイローストに留めた。それぞれの豆を炒り終わると、悪魔がさっそく寄ってきて早くコーヒーを淹れろとせがんできたが、焙煎直後だと豆がガスを多く含んでおりお湯とコーヒーが馴染みにくいことを説明したうえで、二日ほどガス抜きの時間が必要だと話した。
悪魔は明らかに不満げな声を漏らしたが、待つ時間もコーヒーを美味しくする要素の一つだ、などと言って宥めると納得してくれたらしく、一緒に団扇を持って豆を冷ます手伝いをしてくれた。
「貴様はコーヒー屋なのか?」
焙煎した豆に団扇で風を送りつつ、悪魔は僕に尋ねた。
「いや、そうじゃないけど」
「ならば、なぜそんなにコーヒーに詳しいのだ。人間はみなコーヒー豆を炒ったり混ぜたりするものなのか?」
「皆ってわけじゃないなぁ」
「ならば、なぜだ?」
この悪魔は、どうやら質問癖があるようで、自分が知らないことを知らないままにしておくのがどうも嫌いなようだ。なぜ、なぜと尋ねてくるその様子は好奇心旺盛な子供のようでもあった。
「それは……」
「それは?」
身長の低い悪魔は、見上げるようにして僕を見る。くそ、なんだか恥ずかしいな。僕は悪魔の視線から逃げるようにコーヒー豆に目をやり、答えた。
「……好きな女の子が、喫茶店で働いていたから」
沈黙が流れる。
ほんの少しの空白の後、悪魔が吹き出すのが聞こえた。
「ふっ、ふふふ、おい貴様、ストレートがなんだ、ブレンドがなんだと偉そうに講釈を垂れていたが、結局は女のために仕入れた知識か? 猿だな、猿! 貴様は性欲で動く猿人間だ。ははは!」
くそう、これだから言いたくなかった。
僕は赤面しつつ、団扇で豆を煽いだ。本当は恥ずかしさで真っ赤になってしまった自分の顔を煽ぎたかった。
悪魔の言う通り、僕ははじめ、邪な欲望でもってコーヒーの扉を叩いたのだった。
大学の近くの、喫茶店だった。
当時の僕といえば、ろくに講義に出るでもなく、登山部の部室に入り浸っては山の写真を眺めたり、高原地図を眺めたり、次の登山のスケジュールについて部員と話し合ったりしていた。
ある日、ある部員と「山コーヒー」についての話になった。
僕はそれまで特にこだわりを持っていなかったのだが、そいつは山で美味いコーヒーを飲むためだけに登山をしているらしく、こだわりのない僕を「それはお前が美味いコーヒーを飲んだことがないからだ!」と叱責したあげく無理やり喫茶店へと連れ込んだのだ。
かなでと初めて会ったのはその日だった。
カランカランという小気味よい鐘の音と店内に漂うコーヒーの香り、そしてかなでの凛とした「いらっしゃいませ」という声に迎えられて僕は初めてそこに入った。
店内は洒落た雰囲気で、店の特製ブレンドも、一緒に頼めるパンケーキも好みの味だったが、それよりもなによりも僕はかなでの凛とした姿にひかれた。
長身ですらりとした立ち姿、高い位置で結んだポニーテール、切れ長の目、笑うとこぼれる八重歯、注文を繰り返す時にほんの少し首を傾げる動作。その全てに、僕は見惚れた。
その日、四杯目のおかわりの時、かなでは僕に言った。
「コーヒー、お好きなんですね」
僕はどきまぎしながら、咄嗟にこう答えた。
「え、ええ。僕、うまいコーヒーを飲むために登山をやっているんです」
同席した部員には頭を叩かれたが、そんな僕らの様子を見て笑うかなでを見ることができたので、僕としてはむしろ福音だった。
そんな風に僕らの関係は始まった。
幾度となく喫茶店に通い、関係が深まるほどに、僕のコーヒーの知識も深まっていった。登山から帰れば、今回はこんなコーヒーを飲んだ、とかなでに報告し、次はどんなブレンドを飲もうかと相談を持ち掛けたりした。
その度にかなでは僕と一緒に配合について考えたり、アドバイスをくれたりした。かなでのコーヒーの知識は大したもので、見た目には随分と若いのに実はけっこうベテランなのかなと一度疑ってみたりもしたが、小さいころから叔父であるマスターにいろいろと教わっていた結果らしかった。その話を聞いて僕はこっそり安心し、それなら、とかなでに年齢を尋ねてみたが教えてはもらえず、頭をはたかれた。
喫茶店の店員と客、という関係から恋人同士という関係になった時、僕はこの世の愛と幸福を全身で感じていた。それが祝福だと疑わなかった。僕らを引き合わせてくれたコーヒーに、感謝してもしきれなかった。
そんなかなでが実はコーヒーをブラックで飲めないということを知ったのは、だいぶ店に通い詰めた後のことだ。
「あんまり苦いと、飲めないのよね」
困ったように首を傾げながらそういうかなでの姿を見て、僕は決めた。だったらミルクと砂糖を入れてもなお、コーヒーの旨みを最大限楽しめるブレンドを作ろうと。
僕が「かなでブレンド」と名付けたコーヒーが完成したのは、それからだいぶ後のことだった。あまりに遅すぎた。
僕がそのレシピを持って喫茶店を訪れたとき、すでにかなではこの世の去っていたのだから。
「病気、だったんだ」
気が付くと、僕は悪魔に全てを吐露していた。
「かなでと最後に話したのは、初めて外国の山の登山に挑戦することになった時だ。しばらく日本に帰ってこないからって喫茶店に挨拶をしにいった。長い旅行になるから、その期間で例のブレンドを完成させてみせるって。山の綺麗な空気にインスピレーションを受けてかなでの為のコーヒー、淹れてみせるよって、僕はそう言った。かなでは笑って、じゃあ待ってる、約束だよって。その時、かなでの体はとっくに病気でボロボロだったんだ。初めて喫茶店で出会った時から、ずっと」
幼い頃から体が弱く病院に入院し続けていて、長く生きられないと宣告されていたかなでは、だったら死ぬまでに一度でいいから外の世界で生きてみたい、と両親に懇願したらしい。結果、かなでの叔父が経営する喫茶店でアルバイトという扱いで働くことになった。
働き始めたかなでは、医師に宣告されていた期間よりずっと、ずっと長く生きたという。働くという活力が、誰かと共に生きようという気持ちが、娘に生命力を与えたのだろう、とかなでの両親は涙ながらに言っていた。
「僕が飛行機に乗って旅立った次の日に、かなでは倒れた。僕は高山に登り始めていたから、携帯電話の電波は通じなくて、下山の日までそれを知ることができなかった。僕がのんきに山でコーヒーを淹れている間に、かなでは苦しんで、苦しんで、死んだんだ」
僕はかえでとの約束を果たせなかった。
大切な人に、別れの一つも言うことができなかった。
その時、僕の“命”は死んだのだ。大切にすべき何かは、音もなく崩れさっていった。
「それから僕はひたすら山に登り続けた。どんな危険な時期でも、危険な山でも構わず登った。周りからは勇敢なクライマーだとか、鉄のチャレンジ精神だとか言われてもてはやされたけど、なんてことはない、失う“命”がないんだから、恐れることがなかったんだ。死に場所を求めていただけさ。なのに結局、こうして死なずにいる。世界が滅んだっていうのに、“命”の無い僕だけがこうして生きてる。皮肉な話だよ」
豆はとっくに冷め切っていたけれど、僕は団扇を動かし続けていた。
悪魔はそんな僕の話をじっと聞いていた。
けして目をそらすことなく、正面から見つめて。
僕は無性にコーヒーが飲みたかった。
かなでを失ってからも、コーヒーだけは飲み続けた。
それが、僕と世界をつなぐ唯一のモノだったし、余生のような人生を埋めるには最適なものだったからだ。
「私に願えば」
悪魔が口を開いた。
「私に願えば、そのかなでという女を生き返らせることも出来た」
同情でもしたのだろうか。
悪魔は、彼女らしくない言葉を吐いた。
センチメンタルな感傷に浸るのは、僕だけで十分だ。
「かなでを生き返らせて、僕は魂を支払って死んで、今度は彼女をこの世界に一人きりにしろっていうのか?」
悪魔はハッとしたような表情をし、左右にオロオロと目をやって今度は俯いた。少し、言い方がきつかっただろうか。どうも僕は悪魔の少女らしい外見に引きずられているらしい。なんとも罪悪感が湧いてしまう。
「それに、かなでだってそんなことは望まないよ。こんな約束も果たせないような男、忘れたほうが彼女のためだ。さ、豆は十分冷えたし、あとは二日間待ってガスを抜こう。そうしたら、美味しいコーヒーが飲めるよ」
そういって僕は悪魔の肩をポンポンと軽く叩いた。
悪魔は一度僕の顔を、様子をうかがうようにして見上げ、僕が別段落ち込んでいないことを見ると「気安く触れるでないっ!」などと言ってまた尻尾ではたいてきた。
僕は、なんとも可愛らしいこの悪魔に随分と気を許していた。
たとえもうすぐ魂を刈られるとしても、最後にこんな数日を過ごせるのなら、それも悪くない。
寝室の、金庫の中に眠る拳銃を思った。あれを使わないでよかった思える気持ちは、もしかしたら生への執着なのかな、と少し思った。
◇
コーヒーミルのハンドルを回すと、シェルター内に芳醇な香りがはじけるように広がった。
コーヒー豆がもっとも香りを発する瞬間は、いれるときでも、飲むときでもなく、こうして豆を挽く瞬間だと言われている。
僕が豆を挽くやいなや、火吹き室でガス抜きをしていた悪魔もすぐに飛んできて、鼻孔を広げ、いっぱいに香りを吸い込んだ。
「おい、まだか、人間!」
早速催促が飛んでくる。
「まだまだ、豆を挽いて、それから配合するんだから」
そういってまたミルのハンドルを回す。
この香りだ。この香りが、あの喫茶店にはいつも漂っていた。
目を閉じれば、その光景が浮かんでくるようだった。
木目調の、落ち着いた店内。
カランコロンと音を立てる扉のベル。
カウンターの奥でミルを挽くマスター。
そして、いらっしゃいませとこちらを振り向く、かなで。
先日、悪魔に話したからだろうか。
僕は、忘れかけていた「かなでブレンド」の詳細を思い出しかけていた、ブラジルをメインに、サブはキリマンジャロ、ロブスタはほんの少しでいい。
間違えないように、慎重にブレンドする。
悪魔は、ハラハラドキドキといった様子で僕の手元を見つめている。もう少しだ、もう少しで淹れることができる。
あの日淹れられなかった、僕の、かなでの、コーヒー。
シェルターにもともとあったコーヒーメーカーは家庭用のモノなので、豆の粒の大きさはそれに適した中細挽きにした。完成したかなでブレンドを、コーヒーメーカーにセットする。
スイッチを入れ、少し待つと、ポット型の容器にぽたりぽたりと焦げ茶色に輝く液体が垂れてくる。豆を挽いた時ほどではないけれど、その香りは十分に鼻孔をくすぐる。
悪魔は待ちきれない、といった様子ですでにマグカップを自分の掌の中に準備している。
「そんなに強く握ったままだと、淹れたときに火傷するぞ」
そう忠告すると、悪魔は呆れたような顔をして、「おい、私が口から何を吹くか忘れたか」と言い捨てた。それもそうだ。炎の悪魔が火傷なんかするはずもない。
それならば、と躊躇なく僕は抽出したコーヒーを悪魔のマグカップの中に注ぎいれた。
悪魔は喜び勇んで、自分の手でそれにミルクとコーヒーをいれて混ぜ合わせる。その間に、僕は自分のマグカップにそれを淹れる。
これで用意は整った。僕と悪魔はそれぞれにカップを手に取り、テーブルの両端に席取った。
「それじゃあ」
「うむ。いただくぞ」
互いにカップを少し掲げる。乾杯の合図だ。
僕は期待と共にカップに口つけた。
口に入れた瞬間に、芳醇な香りが広がる。心地よい苦味と酸味、コーヒー本来のコクも失われていない。これだ、僕があの日作った通りの「かなでブレンド」。
僕は満足していた。これで、悪魔に魂を刈られたとしてなんの悔いもない。むしろ、おまけのような人生の最後にこんなことをさせてもらってありがたいくらいだ。
改めてお礼を言おうと悪魔の方に向き直ると、以外にも悪魔は怪訝な表情を浮かべていた。
「もしかして……口に召さなかったか?」
誤算だった。よくよく考えてみれば、「かなでブレンド」は確かにミルクやコーヒーを淹れてなお美味しく飲めるものではあるが、それが悪魔の口に合うとは限らない。
僕がかってにそう思い込んでいただけだ。
これでは、悪魔の要望に応えられたとは言えない。
僕は少しガッカリしつつも、また別の方向から再度やり直してみようかと考えていた。その時だった。
「……惜しい……あと一つ……」
悪魔が、呟いた。
「……え?」
「おい、人間。初めに飲んだあのコロンビアとかいう豆はまだあるな?」
「あ、ああ。山のようにあるけど」
「ちょっと貸せ」
そういうと悪魔は席を立ち、先ほどまで僕が四苦八苦して配合していたキッチンへと向かっていった。そこに残ったキリマンジャロ、ブラジル、ロブスタの豆とコロンビアを使いブレンドしていく。
初めての経験であるはずなのに妙に手慣れた手つきで作業を進める悪魔の表情は真剣そのもので、僕は口出しすることも出来ずにその手元を眺めていた。
やがて僕の目の前に、一杯のコーヒーが用意された。
悪魔が自分で調合し、自分で淹れた、いわば「悪魔ブレンド」がそこにはあった。
先ほどとはほんの少し違う香り。コロンビアを混ぜた分だろうか。自分のマグカップには砂糖とミルクを加え、悪魔は満足げに自分の席に腰を下ろした。
「ふふん、どうだ」
「どうだ、と言われても……飲んでみないことには」
「確かにその通りだ。それじゃあ飲め。私が許す」
悪魔はマグカップを掲げる。乾杯の合図だ。
「では、お言葉に甘えて」
カップに口をつける。先ほどの僕の「かなでブレンド」よりと比べ、ほんの少し苦味が抑えてあり、深みがあって、まったりとしており、それはまさにかなでの好むコーヒーの味、そのもにだった。
僕は驚愕していた。かなでを知らないはずの悪魔が、僕の作ったものよりかなでの好みに合致したコーヒーを作るなんて。
目の前の悪魔はというと、自分の入れたコーヒーの香りを嗅ぎ、口に含み、十分に転がしたあとにコクンとそれを飲み乾した。
そして満足げな表情を浮かべ、キラキラと輝く大きな瞳を僕に向け、言い放った。
「やったな、陽介!完成だぞ、オリジナルブレンド!」
そういって右手を掲げる。それがハイタッチの合図だと察した僕は、応じるように右手を差し出し、二つの掌はパチンと宙で弾きあった。衝撃でジンジンと掌が痛んだが、それよりもそこから伝わる熱のほうが僕の心臓に血液を送るように脈打った。
僕はしばらくその心地よい感覚を味わっていたが、そこでふと違和感に気づき、困惑した。
「なぁ、悪魔」
「ん、なんだ陽介」
間違いない。満足げに自らのブレンドをすする悪魔に、僕は震える声で質問した。
「君、なんで僕の名前、知っているんだ?」
僕の記憶に間違いがなければ、僕は悪魔を召還してから、一度も僕自身の名前を告げていない。このシェルターにも僕の名前を示すものは何一つないはずだ。
彼女が僕の名前を知り得ることなんて、ないはずだ。
「え……だって……」
悪魔は呆けたような表情を浮かべ、マグカップを片手に、斜め上に視線を向けて思い返すように
「喫茶店で名前を聞かれて……人に名前を尋ねるときは自分から名乗るのが礼儀でしょって……私が……」
僕は息を呑んだ。
それは、その思い出は、僕と、かなでが、出会った時の、
「陽介は照れ臭そうに……なぜか学生証を取り出して……」
まさか、そんな、そんなことって
「…………かなでっ!」
僕は叫んでいた。
それこそ、悲鳴のような叫びだった。
「私、私は……」
悪魔は、いや、かなでは立ち上がり、後ずさるようにして後方に倒れこみ、ふと眠るように気を失った。
僕は、それから幾ばくか、その場に茫然と立ち尽くした。
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