終末にはコーヒーを　①

「さぁ、望みを請うのだ人間。どんな願いでも、私が叶えてやろう。もちろん、それ相応の対価は頂くがな」

　なりに似合わず、悪魔は傲慢不遜にそう言った。
　小さな、悪魔だった。
　頭髪は蛇のように宙を自由に這いずりまわり、大きな瞳には炎が爛々と燃え、細い体には動物のような毛皮を纏っていた。ベクトル状の尻尾はピンと逆立ち、天を指し示している。毒々しいほどに紅い唇は少女のような顔の造りとアンバランスで、余計に目立って見えた。
　僕は驚愕を抱きながらも、不思議と冷静に彼女を見つめていた。
　悪魔。話には聞いていたが、まさか本当に存在するとは。

　「どうした、恐怖で声も出ないか人間。まぁ無理もない。貴様のような人間にとって、私達悪魔は虫けらにとっての恐竜、地球儀にとっての銀河系。比較するにもおこがましい強大な存在であるからな。まぁ良い。願いを述べられないなら、こちらで勝手に魂だけでも刈り取って……」
　「コーヒー」
　「……へ？」
　「コーヒーが欲しい。できれば豆で。ブラジルとキリマンジャロ、ロブスタもあると、なお良いな」

　まるで行きつけのコーヒーショップで店主に注文をするように言い放った僕を、悪魔はあっけにとられたような顔で見つめた。

　「私は悪魔だぞ」
　「承知してる」
　「願いの対価は、貴様の魂だ。どんな小さな願いであっても、これに変わりはないのだ」
　「逆に言えば、どんなに難しい願いでも魂ひとつで叶えてくれるというわけだ。便利屋稼業としては泣き所だね」
　「貴様はそんな恐ろしい悪魔を相手にして、命を失いかねない機会に、ただのコーヒー豆なんぞを望むというのか！」

　僕の願いは、どうやら悪魔にとっていささか不愉快であったらしい。彼女は元から灼熱に近い顔色をさらに真っ赤に燃やし、声を荒らげて激昂した。空中を漂っていた頭髪は総じて逆立ち、赤い唇の端からはしゅるると炎が漏れ出し、先の尖った尻尾は僕の喉元へと突きつけられる。
　どうも悪魔というのは沸点が低い種族らしい。いや、もしかすると彼女がそういう個体であるだけの話かもしれないけれど。

　「ただのコーヒー、というのには語弊があるな。ブラジルもキリマンジャロも、今の僕には逆立ちしたって手に入らない貴重な豆だ」

　気を逆立てないように応答しつつ、悪魔の腰かけているテーブルに目をやる。飾り気のない銀色のそれにポツンと置かれたコーヒーメーカー。傍らに置かれたコーヒー豆のパッケージには「コロンビア」と表記がある。

　「コロンビアだけなら山の様にあるんだけどね。飲む？」

　喉元に鋭利なものの感触。それが悪魔の尻尾の先端であることは言うまでもなく、どうやら僕の発言は彼女のお気に召さなかったらしい。

　「どうやら命が惜しくないようだな」

　悪魔が冷酷に囁く。
　改めてそう言われると、どうにも思うところがある。
　少なくとも僕は、命は大切に、という標語のような教育を受けて育ったし、子どもの頃はそれが世界の真実だと疑わなかった。大人になるにつれて、そう考える人間が全てではない事や、命が失われることになんの躊躇もない人間がいることも知ったけど、それでも別に命を無価値だと感じたことはない、と思う。
　だけど僕は幾度となく、先刻悪魔が囁いたような言葉を吐かれた。
　その度に、僕は考えた。僕は命を大切に思っていないのかなぁ、と。

　「そんなことはないよ。命は大切だ。ただ……」
　「……ただ？」

　言いよどんだ僕の言葉を、悪魔は少し待ってくれた。もしかしたら、ちょっと気が昂ぶりやすいだけでいいやつなのかもしれない。

　「僕の“命”はとっくの昔に死んだんだ。それだけ」

　突如、部屋中に警告音が鳴り響いた。
　ビイイイイという金属をひっかいたような機械音が神経を逆撫でする。
　悪魔にとってもそれは同様だった。突きつけられていた尻尾は慌てふためいたようにパタパタと動き回り、彼女自身も左右に視線を泳がせる。
　そんな彼女を、突然の豪雨が襲った。
　いや、ここは室内だ。雨なんてものが降るわけはない。
　よくよく見てみれば、それは天井に仕掛けられた消火装置の放水だった。悪魔が激昂とともに漏らした炎が、火災報知機に反応してしまったらしい。
　室内の危険に対して躊躇なく浴びせられた無慈悲な放水は、悪魔に対して多大なダメージを与えたようで、先ほどまで縦横無尽に蠢いていた彼女の頭髪もペタリと肌に張り付き、爛々と輝いていた瞳は消沈し、ベクトル上の尻尾はくたりと床に横たわった。

　「おい……なんだこれは」

　その床を這いずるような低い声で悪魔は吐き捨てる。
　僕がやった、と思われているなら心外だ。

　「君の体から出た炎に、シェルターの消火装置が反応してしまったみたいだ。ここは地下だからね。いたるところ、いたる種類の危険に対してセーフティが働くようになっている。なるべくここにいる間は、火吹きは遠慮しておいたほうがいいみたいだね」
　「これは体質だ！ それを火吹き、だなんて曲芸みたいに言うんじゃな…」

　再度激昂して燃え上がった悪魔の炎を二度目の無慈悲の放水が襲う。頭上からの滝のような落水。滴る消火水。悪魔の腰かける僕のテーブルも、コーヒーメーカーも、既にビショビショのぐずぐずだった。
　とうの悪魔は、どうやら今度は呼吸器系に水が入ってしまったらしく、けほけほと咳き込む様子を見せた。

　「おいおい、大丈夫か。だから火吹きはやめとけって言ったのに」

　ぶるぶるっ、と体を震わせ悪魔は大きなくしゃみをする。
　少女らしい見た目相応の、そのか弱げな姿は、なんだか捨てられた子猫のようで僕の憐憫を誘った。

　「ちょっと待っていて、今拭くもの持ってくるから」

　脱衣所のバスタオルを取りに駈け出そうとした僕の洋服の裾を、何かが引っ張った。振り返って確認すると、それは悪魔の小さな手だった。

　「……おい、人間」
　「どうした、どこか苦しい？ 痛むところがある？」

　　心配になって彼女の顔を覗き込むと、ギロリとした強い視線が僕の頭蓋を貫いた。どうやら、お怒りのようだ。

　「私をここから出せ。この放水地獄の空間から出せ」
　「……悪魔にとっても地獄よばわりか、ここは」
　「いいから出せ！ 私は濡れるのが一番嫌いなんだ！」

　駄々をこねてイヤイヤをする悪魔は本当に少女のようで、僕は心の中でクスリと笑った。しかしながら残念なことは、僕が彼女の用命にどうあっても応えられないことだった。

　「申し訳ないけれど、僕はここを出られないし、君のことも出してあげられないんだ。君が超常的な力を使って出るのなら、話は別だろうけど」
　「……どういうことだ？」

　悪魔は不思議そうに首を傾げた。彼女が本当に悪魔なのだとしたら、その辺の事情について知らないわけがないとも思うのだけど、もしかしたらよくある「何万年の眠りから覚めて～」というやつなのかもしれないし、今は特に考えないことにした。

　「まぁ、そのことは後でじっくりコーヒーでも飲みながら話すとしよう。そんなに濡れてちゃ風邪をひく。今タオルを持ってくるから、炎を体から出さないようにして待っているんだよ」

　僕がそう諭すように言いつけると、悪魔は少し考えてからコクンと小さく頷き、その掌で掴んでいた僕の服の裾をようやく離してくれた。