終末にはコーヒーを ⑥
白い、部屋だった。
頬を何かが伝っている。
それが涙であると気づくのには、それなりに時間がかかった。
誰かが泣いている。
ああ、なんて情けなくて、愛おしい声。
陽介。私の、恋人。
「……長い、旅行だったね」
かすれた声でそう呟くと、目の前ですすり泣いていた陽介が顔をハッと顔をあげた。
私が知っている頃より、少し年を取ったかな。
それでも、やっぱり泣き虫で情けなくて優しい眼差しは、昔のまま変わらなかった。
「……おかえり、陽介」
身体を、暖かいものが包み込んだ。そっと優しく、それでも確かに私を抱きしめる陽介の身体を、私も精一杯抱擁した。
ドクン、ドクン。
陽介の鼓動を、全身で感じる。
私たち、生きている。
この、終わってしまった世界で、たった二人だけど、それでも生きている。
そのことが、たまらなく、うれしい。
「愛してる」
陽介が、囁いた。
「……知ってる」
そう答えた私の唇を、陽介が覆った。
何千年、何万年、何億年ぶりの、キスだった。
「おうおう、お熱いねえ」
どれくらいの時間、そうしていただろう。
二人の時間に横やりを入れたのは、聞き覚えのある嗄れ声だった。
「どうやら、願いは叶ったみたいだな。さすがは俺、対価分の働きはしっかりする。悪魔の鑑だねぇ」
私は戸惑う陽介の肩を安心させるように軽く叩き、立ち上がった。
「久しぶりね、悪魔さん」
「本当だなぁ。俺たち悪魔にとっちゃあ、数万年なんてのはほんの一瞬に等しいもんだが、それにしても長い時間が流れた。色んなことを忘れちまうほどになぁ」
悪魔はへらへらと笑いながら応答する。
いったい、何が目的なのだろう。
願いを叶えた私の、あるいは私が願いを叶えてしまった陽介の、魂を刈りに来たのだろうか。
だとしたら……。
「おっと、妙なことを考えるなよ。何もあんたたちの邪魔をしに来たってんじゃねぇ。俺はただ、お二人の新生活、そのアドバイスってやつをしに来たのさ」
悪魔は相変わらずの調子で話し続けている。
私は警戒を解くことなく、それを促した。
「どんなアドバイスをしにきたのかしら。まさかアドバイスに対価を求める、なんて言いださないでしょうね」
「いやいや、そんなことは言わねえよお。だってもう俺たち、魂を集める必要なんてないんだもの」
悪魔はへらへらと笑う。こいつは何が言いたいのだろう。
私が疑問を投げかけようとすると、横の陽介がおそるおそるといった様子で言葉を発した。
「最終戦争が……終わったからか?」
どこからか、パンパカパーンという電子音が聞こえる。
悪魔の力だろうか。
「ご名答~。さすが、彼氏は察しがいいねぇ」
ぱちぱちと拍手をする悪魔。
「どういうこと?」
「言葉通りさ。俺たち悪魔が魂をあつめるのは、そいつらを最終戦争で使う手駒、尖兵にするため。そのために厳しいノルマがあったわけ。でももう戦争は終わった。ノルマはなくなり、俺たちは晴れて自由。もちろん……」
悪魔は両手の人差し指で、私と陽介をそれぞれ指さした。
「お前達二人も、自由ってこと」
私と陽介は顔を見合わせた。
お互いに目で確認しあい、悪魔の言っていること、言いたいことにようやく察しがついた。
「もうこの世界に神はいない。悪魔の親玉もいない。もちろん俺みたいなしぶとい残りカスみたいな奴はそこらへんにいるけど、まぁ別段お前らに干渉することもない。運命も、終末も存在しない、おまけのような世界だ。だから勝手にするといい。新しい世界のアダムとイブになるのもいい、人類のいない世界に悲観して互いを殺しあうもいい、暇をつぶしながらゆっくりと過ごすのもいい」
悪魔はいたずらっ子のような表情でにやりと笑った。
「コーヒーでも飲みながら、な?」
コロンビアの袋を一つ抱えて、悪魔は消えていった。
悪魔もコーヒーを嗜むのか、そう思うと急に親近感を覚えるのはなぜだろう。
キュッと私の掌が掴まれる。隣に目をやると、陽介が微笑んでいる。ああ、なんて暖かい手なのだろう。
あの優しい悪魔のことは、とりあえず今は放っておこう。
私は、この人と話したいことがたくさんあるのだ。
少しおなかがすいたかもしれない。
昔よく喫茶店で出していたパンケーキを焼こう。
傍らにはもちろん、コーヒーを添えて。
終わり
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