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西成ガギグゲゴ【七人の侍 はん】

幼稚園の時、昼飯は給食だった
お箸とおしぼりを各児童が準備をして給食を食べていた
今は大好物なのだが、片栗粉で揚げられた唐揚げが当時食べれなかった
わたしは、唐揚げが給食に出る度におしぼりが入っているプラスチックケースの奥に、唐揚げを押し込んで隠していた
その唐揚げがその後どうなったかの記憶が無い
あれは、夜の新世界市場だった。
縦間のまっすぐな暗がり世界の中から、おっぽりだされた様に彼は、私の前に唐突に現れた。
頭のうえにニット帽をのせた、どこか道化の様な風貌だったが、強烈に死臭を放つ浅黒さがそこにあった。
8年前にわたしは新世界市場に来たのだが、それから数日後に彼は、新世界市場に来て私に出会った。
名は「はん」北海道苫小牧からここまで流れてきたみたいだ
大阪にはんも来たばかりで当時は西成のドヤを拠点にして、何かを探している様だった
自称映画監督と言う事と、中々のビジュアルだった為、何かを持っていそうな雰囲気を醸し出していた
「今日は大切な日なんで、何かアクションを起こそうと思い、新世界にきた」とはんは言った
当時、まだセルフ祭を開催する前だった
※セルフ祭とは新世界市場で毎年敬老の日に開催されるお祭りであり
8年間を経て今では日本の奇祭として認知されている
開催地は新世界市場と決まっていて、祭の準備で忙しく過ごしてた
時間があれば4人で大阪の名所や人が沢山集う場所を選んで、わけのわからない着ぐるみを来て祭の宣伝パレードをゲリラでやっていた

たまたまその日は、通天閣近辺でパレードしていて、それを見たはんが興味を持ち
新世界市場を装飾しているわたし達に声をかけてきたのだ
そのまま装飾の手伝いをしてくれた
ただはんは、黙々と同じ作業をこなしていた
そこからはんは毎日、新世界市場に通う様になる
ピカスペースの場所を、祭りの期間、事務所として使わしてくれる段取りをした
無料で貸してくれる条件として新世界市場の片付けや掃除などをわたし達は、率先して行った
当時セルフ祭のメンバーは5人だった
大阪2人 東京1人 気仙沼1人 苫小牧1人
外地から来たわたし達3人は、そのままの流れでピカスペースに住み着いて行った
本当に可笑しな1年だった
もう1度したいとは思わない
ピカスペースに毎日の様に色んな人達が流れ込んできた
その勢いそのままにセルフ祭も半年で6回開催していた
毎日毎日、宴が繰り広げられ何もかもを鍋に突っ込んで完成した物をその都度セルフ祭で提供して来た
全員が頭パッカーンでアホだった
わたし達3人は新世界市場で生活している為、年配者がおおいこの商店街で色々な頼まれ事をこなしていた
わたしは手先が器用な方なので、新世界市場の大工仕事などもやっていた
はんも意外といける為、よく2人で空き店舗の片付けや大工仕事をしていた
変な風貌だが良くやってくれると新世界市場の商店主からの信頼を得て行った
ただ何かを一緒にする時には、必ずはんとわたしはぶつかった
わたしは全体的な事を把握した上で段取りを組むタイプなのだが、はんは1つ1つに向き合いそれを処理して行くやり方だった
まったく全体の事を考えないのである
ある時、商店街の酒屋さんが他にも物件を持っていて3階建ての中見全てを処分して欲しいと言われた
すごい量の物が溢れていた
酒屋さんには、非常に良くしてもらってきた為、わたし達はそれをやる事にした
これが大変だった
30回以上軽トラックを満杯にしてゴミ処理場にピストン輸送を繰り返した
2週間近くかかり、最後は業務用の冷蔵庫が軽トラックに乗らない為、スクラップ屋まで手押しで運んだ
これで1日1万円は安すぎると思っていたが、恩もある酒屋さんの為その請求書で行こうと考えていた
そうしたらはんがこう言い始めた
「はるきくん 僕たちは、本当に最後まで生一杯向き合えただろうか?」
「今回の1日の値段は1万円以下だ、酒屋さんに給料を決めてもらおう」
わたしはその時、唖然とした
決まった職業を当時持っていなかったわたし達は、西成あいりんセンターに通い出し
日雇い労働に行き出した
バスに乗せられ飯場でかき集められた労働者達と、米とみそ汁のみを流しこんだ
弁当と呼ばれる粗末な昼飯をもらい各自が現場に流されて行った
あまりにも悲惨な現場にあう事も度々あった
西成から来た日雇い労働者と言う事なのか、こんなにも非人道的に扱われるのもなかった
茶色い封筒に入った1万円を鷲掴みにして
もはや泥だらけになった服のまま、電車に乗り
なるべく角の方に行き存在を消しながら、西成に帰って行った
西成に着くとどこか安堵して泥だらけの作業着のまま、西成の立ち飲み屋でのどを潤した
また次の日には、4時半位にあいりんセンターに行き、余った金で泥棒市を楽しんでいた
「これが西成スタイルだな」
どこかその生活すらも楽しんでいた
優しい労働者も沢山いて、若いんだから一人親方目指せと諭されたりもした
わたし達は、西成にどっぷり漬かって行った
ある時、インドのサドゥーの話しをはんにした
※サドゥーとはインドの苦行僧の事を言う
ヴァラナシで毎日、サドゥーにご飯を運んでいた時、何度その目を見てもわたしを貫通していて遠くを見ている感じだった
わたしは、サドゥーが何を見ているのか考えていたが、咄嗟に後ろを振り返ったらそこには「うんこ」があった
サドゥーはうんこを見てたと言う話しだ
はんはおもむろに腕を組み考え込んでいた
「はるきくん これは墓まで持って行く話しだったんだけどいいかな?」
はんの門が開いた
はんは大阪に来て間もない間、失業保険を貰っていた
「うんこを食べたい」とその時考えていた
考えた結果、そういう風俗を選択した
自然に排泄される場合と意図的に排泄される場合だと値段が違う
はんはもちろん前者を選択した
失業保険の半分の額の5万円を握りしめ、待ち合わせ場所の日本橋で待っていた
あまりにもすごいオーラを放っていたのだろう
なにせ今から初めてうんこを食うのだから
話しかけてきたのは警察官だった
職務質問が始まった
はんは意外と失語症の様な症状がある為、テンパリながらもかろうじてうんこに辿り着いた
さぁ今からうんこを食べようと思い口を開いていた所「ポンッ」とうんこが飛んできて口におさまったと言う
なんとか飲み込みミッションコンプリートとはいかなかった
帰り道、胃からあがる臭気に耐え切れず吐いてしまったらしい
不本意と感じたはんはもう1度、うんこを食いに行くのである
もちろん違う女性の風俗で
「やっぱり ギンギンなの?」と聞くとはんは「はるきくん野暮な事を聞いちゃいけないよ」と透かした感じで言う
腹が立つ
はんは今までで誰よりも出会った時に死臭を感じた人物だ
わたしは出会ってすぐその事を聞いた
はんは言った
「自転車でスペインまで行こうと考えている」
「それをRoad Movieにしようと考えている」
「京都に良い自転車屋さんがあってね、込み込みで100万円」
「その為の準備をしてるんだよ」
「何のために?」
「会いたい女性がスペインにいてね その子に見て欲しいんだよ僕の映画を」
「でもね はるきくんその旅路で本当は死にたいんだ僕は」
「僕はね 死に場所を探しているんだよ」
「誰かが必ず彼女に届けてくれる 僕の映画を」
あれから8年が経った
はんは生きているしスペインに自転車で行っていない
このスペインの女性と言うのがかなりのキーマンである
はんは北海道苫小牧出身である
3世帯で新築に住んでいた所、親父とお爺さんが大ゲンカをした
母型の家は下宿屋をやっていてそちらに移り幼少期を過ごす
色々な下宿人がいたため、好奇心の塊の時も重なり毎日が祭の様だった言っている
学校ではムードメーカーの様な立ち位置になり、毎日が楽しかったと言う
小学6年生と時、親父型のお母さんが体調が悪くなり、そのタイミングでその生活から引き剥がされた
3世帯の同居生活に戻った時、子供ながらにその雰囲気を察した
まったく面白味を見いだせず祭もその時から無くなったと言っている
中学に上がる頃には、ムードメーカーの立ち位置では無くなり
円形脱毛症も相まって荒んだ時期を過ごしていたと言う
ただ色々な情報を収集していて、中学生から高校生になる時には、かなり早熟した考え方をもっていたと言う
好きな女性が出来ると良い関係性にはなるのだが、一歩が踏み出せず友達以上の友達止まりだった
それでもその女性と関わっていたいと感じ、その女性の家の土を持ち帰りそこに種を植えて眺めていたと言う
「本当に好きな人とは結ばれない」はんはそう言った
はんは高校を出てから地元の店舗設計の専門学校に行った
「何かが違う?僕はこんなもんじゃない」と自問自答した2年間だった
卒業して就職しようと思った矢先に過度のストレスの為か円形脱毛症が悪化、皮膚もボロボロになる
精神的にまいってしまう
非常にレアなケースと病院に言われ、岩手県盛岡市の専門病院に1年入院する
この時の入院生活も幼少期の下宿屋見たいに毎日が祭だった
楽しかったと言っている
退院して苫小牧に戻って来たタイミングで
中学の時から好きすぎて土を持ち帰った女性と再会する
その女性は看護婦になっていた
はんはこれは運命と錯覚して、ここでこの女性と結婚しようと考えていた
まずは地盤固めと言う事でダスキンに就職を決める
就職して3年間の間に良い関係になるが一歩が踏み出せず、お付き合いするまでには発展しなかった
頭の中では結婚すると決めているのに、それが覚束ない相当なジレンマでないだろうか
結局、彼女と結ばれる事は無かった
それでもその女性とは10年以上文通を続けていた
文通が終わる時がさり気無く訪れた、彼女の姓が変わっていたのだ
「はるきくん 究極の快楽は断念だよ」
はんの名言の1つである
何かを振り払いたかったのだろ、故郷を後にして札幌に移住した
27才の時だった
「詩」「音楽」「歌」「ノイズ」「絵」あらゆる表現手段を模索していた
狂ったように表現の世界に傾倒して行くのである

全ての表現は「映画」1つで完結する

はんはそう辿り着いた
「俺はもうすぐ死ぬから、このカメラを使ってくれないか?」
そんな事を言うカメラマンにその時、出会った
はんは映画と言う選択にこの出会いで確信に変わったと感じた
映画の世界に僕の全てを捧げようそう固く決心した
札幌の友人達と盛り上がっていた所、「燻製屋」を作ろうとなった
何か収入を作らねばと思っていたはんは、知人の店の横に掘立小屋を建てて「ララバイスモーク」と言う燻製屋をやりはじめた
元々、凝り性だったので燻製は話題を呼び、新聞1面に取り扱われた
札幌に来て、良く遊ぶ女性がいたはんは彼女と付き合っていると思っていた
正式なアプローチもしていないのに、そう錯覚していた
その子も燻製屋の制作から携わっていた
何時も彼女がそばにいた
良い方向で周り始めたが、掘立小屋は寒い冬を越せる事が出来ず雪に埋もれてしまった
なんとかララバスモークは出店と言う形で続けたが精神の限界が近づいていた
何時もいた女性はいつのまにか友人と付き合い始めていた
カメラももらえなかった
はんは過度のストレスで原因不明の全身脱毛症になる
毛と言う毛が全て抜け落ちてしまう
「逆に楽になった」とはんは言った
はんは長年悩まされていた円形脱毛症から解放された
今では頭髪はまったくないが、どちらかと言うと体毛は濃い方だと感じる
はんは面舵一杯をここできった
映画で勝負しようと28才での上京だった
東京に着いて間もなくおっさんに話しかけられた
「兄ちゃんついてるねー」
「この馬券、万馬券なんだけど」
「半額で買わないか?」
はんは何の疑いも無くその馬券を買った
もちろんハズレ馬券である
軽く東京の洗礼を受けた
東京にきてからアップリンクと言う所が主催する映像ワークショップに参加した
そこで馬が合う連中と【5月の「」】と言う映画チームを作るのである
東京での華々しい映画生活が始まったかの様に見えた
はんは東京というおおきなうねりに飲まれていた
生活がマンネリの様になっていった
お抱えの風俗で埋まらないなにかを埋めていた
風俗女性とは行為をせず、時間内の間、ずーと抱きしめてもらっていた
高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪と拠点を移しながら断捨離もはじめていた
映画と言うが普段は、TVの番組の校正のアルバイトばかりの日々だった
楽で給料も良かったが、これでいいのだろうかと思っていた
「僕はこんなもんじゃない 僕はこんなもんじゃない」
34才になっていた
ここに女神が現れるのである
最初に触れたスペインの女性である
スペインの女性とは正確には、当時27才の女性でスペインに1ヶ月後に行く事が決まっていた日本人女性である
絵を描く事を生業としていて、その子もスペインで大きく勝負しようとする時期だった。

はんは完全にこの女性に射抜かれてしまう
そしてこの女性を被写体にした映画を作る事をその瞬間決めた
頭髪以外の毛はこの出会いにより再生しだしたとはんは言う
彼女は1カ月後にスペインにいってしまう、全てのエネルギーを彼女に捧げる
勝手にそう決めて決行した
彼女の素直な人柄も相まって撮影は行われていた、彼女の旅立つ日まで
彼女の旅立ちの日、はんは一番高い所に登って彼女が乗っているだろう飛行機を映像に残そうと富士山に登った
丁度、8合目あたりで彼女の飛行機は日本から飛びだった
はんは、スペインの方角西北西の空にカメラを向けた
彼女が出国してから、喪失感に苛まされていて完成してない映画の為に、彼女が生まれ生活していた東京あきる野市に移住した
彼女が住んでいたであろう場所に、拠点を移してスペインの方角の西北西に向けてカメラを回し続けた
「念写」「残響」「残像」
彼女が育った場所で「ナニカ」を映像に残そうと6ヶ月間カメラを回し続けた
その映像に彼女は映っていなかった
はんは、決心するスペインに行こうと
期間雇用と言う仕事形態があり、当時まだリーマンショック前だったので、車工場の労働は負荷は強いがそれ相応の見返りがあった
はんは、群馬、愛知などの大手車工場を梯子して、その合間に8mmカメラを買いスペインに行き来した
その数、1年に5回である
彼女はその心意気を最初は歓迎するが、毎回、接写で撮影するはんに恐さを抱き始め3回目以降からは、スペインにはんが来ても
撮影に協力しなかった。
それでもはんは、スペイン、バルセロナまで行き彼女が生活している場所を狂った様に撮影し続けていた
彼女は、スペインで成功しはじめていた
同じ絵描きを生業にするスペイン人の彼氏ができていた
2人で制作しだした途端、拍車がかかった
今では2人は世界中で作品を作るアーティストになっている
日本での作品発表が決まり、2人は東京に制作しに来ていた
その時のパーティーにはんも現れた
2人の関係性を祝福はするものの、感情が追いつかなかったはんは酒を煽り
会場前で泣きじゃくりながら、声にもならない慟哭をあげていた
天もそれを察したのかどしゃぶりの大雨になった
大雨の中、はんは漆黒の闇にまみれて行った
2人はそれを見ていた
はんは、スペインの旅費などを途中から消費者金融で賄っていた
その負債と彼女の事を整理出来ない気持ちを抱えながら、東京を後にした
37才だった
今だにその負債をはんは払い続けている
「日本だったら京都に住んでみたいかな」と彼女は言っていた
その言葉を思い出し、はんは京都に流れていた
負債額はどんどん膨れ上がって行った
京都で4ヶ月間、過ごしたが感情は安定しなかった。
彼女の匂いはしなかった
そこから大阪西成に流れてくるのである
そしてわたし達に声をかけたのも、その日が彼女の誕生日だった為、何かアクションを起こそうと思い
わたしたちに声をかけてきたのだ
その当時、はんが放っていた漆黒の死臭の謎は解けた
はんは、新世界の住人になっていった
ピカスペースもお店としてオープンした
器がある事で、多種多様な人々がピカスペースを通過して行った
少しずつ少しずつはんの死臭は消えて行った
中々のビジュアルも相まってどこでもマスコットキャラの様になっていた
ムードメーカーも復活していたが、はんは繊細で扱いが難しかった
陰と陽が限りなく拮抗しているそんな感じだろうか、みなに好かれる為、色々な人達がはんと交流を持った
ある者は、何かをいっしょにしようと、またある者は仕事を工面したりした
みながはんを愛しはんに対して特別優しかった
ただはんは、全てが長続きしなかった
ユニットも仕事も全部、自分の感情で最後に引いて行った
それは、8年間向き合えばわかる事なのだが、相当ワガママだとわたしは思っていた
「僕はこんなもんじゃない 僕はこんなもんじゃない」
そう言って引き際を作るのである
そんなはんにも春が来ていた
ピカスペースに良く来ていた若いかわいらしい女性とお付き合いが始まった
はんは告白を迷っていたが、煽りまくり告白させた
わたしはイケると確信していたからだ
はんの春がはじまった
当時、まだ3人でピカスペースで共同生活をしていた
わたし達2人は、彼女も出来ていた為、2人ともヤドカリ生活をしていた
はんのみがピカスペースの屋根裏生活をしていた
はんもその彼女の家でのヤドカリ生活がはじまった
なにもかもが極彩色の様になり、まったく死臭が無くなってしまった
はんに対して幸せになってほしいと思っていたが、そうなればなるほど「ソソル」部分が無くなって行った
彼女とのヤドカリ生活が1年半が経過しただろうか、はんは彼女に対してワガママになって来ていた
2人で遠出した時など、少しでも気分が優れないと1人で勝手に帰ったりした
彼女は15才も年下なのに、はんは大人気ない対応を続けた
彼女も度々、ピカスペースに来てはわたしに相談してきた
わたしは間に入って対応したが、はんは劣化して行く関係性を修復しようとは考えていなかった
「僕はこんなもんじゃない 僕はこんなもんじゃない」と言い残し彼女の家とピカスペースの屋根裏を行き来していた
彼女との終焉も近づいていた
彼女の自宅で寝ていた所、勢いよく2人は起きだした
はんが寝小便をしたのである
わけがわからなくなったはんはそのまま彼女を押し倒しSEXを始めたと言う
はんが寝小便をして間もない間にはんは再び寝小便を彼女の自宅でする
流石に彼女も呆れたと言う
弁解のSEXもさせなかった
「はんさんを介護するのは嫌だ」と言い残し彼女は別れを告げた
彼女は若くて良い子だったと思う
はん次第で結婚も出来ただろう
「僕はこんなもんじゃない 僕はこんなもんじゃない」と言い続けていた
彼女と別れる前位から屋根裏住まいだったはんは、新世界市場の近くの一軒家に格安で住みはじめた
ピカスペースの大家さんの持ち物件だった
ただそこは結構曰くがあり、二軒隣は組の事務所でその物件は、はんが住む前は借主が謎の失踪をしていてゴミ屋敷になっていた
大家さんは片付けるのを条件にしてはんに格安で物件を貸した
ピカスペースから歩いて3分位で静かな場所だった
はんは1人の生活を手に入れた
そのタイミングでピカスペースには女子高生が来はじめた
制服で来た為、最初びっくりした
その女子高生はその後、はんの門のキーになって行く
まだあどけなさがのこる女の子だったがどこか妖艶な部分を内に秘めていて
ピカスペースのおっさん連中もその何とも言えない色気にやられていた
はんはその女子高生に貫通されていた
はんは頭髪以外が少し毛深くなっていた
その子も中々、考え方が早熟していた為、全ての群がるおっさん連中を独特の色気でさばいていた
はんはその子に夢中になり、その子を撮りだしていた
スペインの女性のしがらみから、逃れる様に女子高生に鞍替えしたのだ
その女子高生もはんとの関係を楽しんでる様だった
わたしはそんなに興味が無かったがその経緯を注視して来た
高校を卒業して、20才になる位にはそのなんとも言えない色気は満開だった
あどけなさと女が同居している様な独特の色気だった
彼女は、はんの家に泊まったりもしていた
密な関係性になっては行ったが、一線は越えてなかった
というか越えれなかった。
はんの家に彼女が1週間近く滞在した時の事、彼女は女性特有の時期だったはんは彼女の洗濯もしていた
洗う前にまずその彼女が着ていた、衣類の匂いをかかさずかいでいた
「はるきくん」【声と匂いは裏切らない】はんの名言の1つである
また彼女ははんに対して警戒心が薄れていたのかどうかわからないが、月の物をゴミ箱に処理した
はんは「それ」をゴミ箱から取り出し保管した
それで彼女が出かけている時に自己処理していた
彼女が滞在して最終日の夜、はんの門が開く
ふとんはお互いの頭のてっぺん同士が向き合う様に連日ひかれていた
今日で彼女との生活が終わってしまう
はんは最後の夜に彼女に向けて手を伸ばした
丁度、2人の間にいつも彼女が肌身離さず付けている「ポシェット」があった
はんはそれを愛撫しだした
直接、彼女に触れてしまってはこの関係性がどうなるかわからないと考えていたはんは
彼女のポシェットを愛撫しながらイメージのみで絶頂に近づいていった
後日、彼女が帰ってしまった部屋で保管していた「それ」を出した
はんは何度も何度も絶頂していた
「はるきくん でもね 7回だけだよ」
「ちゃんと処分したし」とはんは言った
腹が立つ
また彼女が泥酔してタクシーで帰宅している時、介抱していたはんはギンギンになってしまう
彼女は吐いてしまうのだ。
その彼女の吐瀉物ではんの門が開きっぱなしになってしまった
「はるきくん 彼女の吐瀉物の匂いがたまらない」
彼女が高校生を卒業して、3年以上が経過していた
その彼女とはんの奇妙な関係性もピリオドが近づいていた
はんは、彼女に思いを伝えようと珍しく決めていた
まさに彼女に告白しようとしたその日、彼女に彼氏が出来た
それはわたし達の共通の友人だった
しかも映画監督だった
はんはピカスペースにくるとおもむろにソファーに横になった
「はるきくん ちょっといいかな」と言ってはんは泣きはじめた
わたしは、そこではんが言った名言を思い出しはんに言った
【頬をつたう涙の軌道と星の軌道は無関係じゃない】また巡りあう
「うん ありがとう」とはんが言った
【究極の快楽は断念】とわたしは続けた
はんは2時間男泣きしていた
それでも若く才能ある女性陣からは、そのビジュアルも相まってか需要があった
その子達は賢くて、はん対応術を持っていた
人参をぶら下げて走らされるように、はんも彼女達の周りを走り回っていた
はんもそこは自分自身で理解していたが、若く才能ある「おねだり」からは逃れられないさがだった
1人とびきり才能もあり、ビジュアルもロリん子で妙な色気を放つ若い女性がいた
彼女はイベント企画や自身の個展などを精力的に行っていた
それをはんは手伝っていた
はんは活き活きしていた
まるで女子高生の道を辿る様なそのさまに、わたしは笑っていた
その女性とのお手伝い関係も2年位経過していた
彼女が暮らしているマンションが毎日見える職場にはんは移動していた
また彼女の最寄も近かった為、そこで偶然を装った彼女とのコンタクトの機会を夢想しながら職場に通っていた
そんな女性が売れ残る訳も無く、彼女もまたわたし達の友人とつきあっていた
本当に稀だがたまに変なモードに女性がなる時がピカスペースである
はんは100%の確率でそれに立ち会う
その日も、そんな日だった
たまに来る、少し妖艶な26才位の女性だった
お客さんがいっぱいいる時に何時も来ていた為、そこまで印象に残るような子ではなかったがエロスは洩れていた
その子が、誰からかまわずキスしだしていたのだ
はんは、彼女が来だしてから良くわたしに彼女の話題を振って来ていた
「はるきくん 好きな子が出来たかも」と
「これはチャンス到来だな」と思った
はんと彼女はピカスペースの中で、他のお客さんがいようとおかまいなしにキスしまくっていた
はんは、キスが下手だった
何度もタイミングが合わず頭を「ゴンッ」とぶつけていた
彼女も「もぅ はんさん」と嘆いていた
ただはんは何とかして彼女に食らいついてた
どんどんどんどんはんのボルテージはあがりまくっていた
彼女が終電を逃したタイミングで「閉店でーす」と声をかけた
はんは待ってましたと言わんばかりに彼女の手をとり自宅に帰って行った
翌日、苦い顔でピカスペースに来た
「はるきくん 家の玄関に着いた所で彼氏から電話がかかってきてね」
「彼氏が怒ってて、彼女にタクシー代5000円払って帰ってもらったよ」
「はるきくん 本当にやってないからね」
その悔しそうな顔を見ればわかる
「ギンギンだった?」
「はるきくん もちろんだよ ギンギンだよ 3回も1人でしたよ」
めったに無い軌跡の日に最高のパスを出したのに最後の最後でツキに見放される
それがはんなのだ
はんは何時でもピカスペースにいる感じだった
わたしは、はんと長く時間をすごさななければいけないのと、完成しない映画について何かの形にしたいと思い
はんと共同で、イベント企画をしたり何かを試したりあらゆる事を8年間試したが何一つ継続していない
スタートはいいのだが、途中から扱いが難しくなり「概念」を持ち出し
あーでも無い、こーでも無いと論じ合いになる
わたしは、はんと長時間会話する中で意外な所に着地するケースが面白かった為、何遍でもその概念を議題にしていた
結果そこで全てが終結してしまい
「はるきくん 僕はこんなもんじゃないよ」と言い残し何も形に出来なかったわたしは、何とかして映画を作って欲しかった
好きで好きでたまらない女の子と寝ている時、
触れたらその関係性が壊れてしまうと思ったはんは彼女の「ポシェット」を愛撫して絶頂した
同じ条件ならわたしならマスターベーションを選択する
女の子が吐いた吐瀉物で発情する
そんな感性を持つ人間がつくる映画を見て見たかった
わたしは、映画祭を企画して実行した
新世界にある使われなくなったガレージを借り、これはと思う人達に声をかけ10人以上が映画祭に作品を自作して持ち寄った
映画自体を初めて制作する人達も多かった
わたしもその一人だったが映画を作った
はんは周りの連中が映画製作をしているのに触発された
スペインの女性の作品を編集しはじめていた
映画祭当日、ギリギリまではんの映像の編集と人生の偏執は続いた
はんの作品は、ポラロイドカメラの「フラッシュ」の様だった
作品名は「ネイ・ニムアノア」
スペインの女性は、ぼんやりとかぼそく映っている
8mmカメラをはんが持ち、彼女は生まれた東京あきる野市の土手をスペインの方角に歩いている
どこか楽しげに
切なかった
ずーとカタカタカタと映像の音が流れてた
彼女の名前はミナだった
3分7秒の作品で良く分からないが全ての編集に3.7を使ったみたいだ
最後はぶつんと映像は途絶えた
審査員はわたし達のなかでも有識者の部類の3人を招いた
評は3つにわかれた
わたしは「兆し」と言う作品を作った
当時、わたしには好きな女性がいて彼女には彼氏がいた
その彼女に告白すると言う作品だ
もう1つは森の中で女性を緊縛して行く作品だった
2人は前日に初めて貫通したのだろう
その余韻が十分すぎるほど伝わる作品だった
それとはんの作品だ
3つに評はわかれたが、勢いが勝ったのかわたしの作品が選ばれた
はんはその時の作品を後日完全に消去していた
はんには、優れた能力がありYouTubeのフィルターを通すと素晴らしいガイドをしてくれる
わたしは、たまに酒を持って行ってHanTubeを頼んだ
膨大な1人時間と元来の収集癖とネットサーフィンは、YouTubeのフィルターを通す事でこんなにも素晴らしいガイドになるのかと
会話をするより、そちらの方にコミュニケーションは移行していた
わたしは、はんがアテを作っている間にはんのパソコンで検索しようとパソコンに触れた所、誤ってフォルダを開いてしまった
そこには全裸の女性写真の様なものが現れた
どれも幼い感じである
スクロールをして行った所
見た事がある顔ぶれが出てきた
それも全裸で
はんの成就しなかった女性陣である
はんは声にもならない声をあげてこう言った
「はるきくん これは墓までもっていって 頼むよ」
はんはアイコラ職人だった
何かに夢中になっている時も多々あり、それを知らないわたしに対して上から目線で嘲っていた
3DVRにはんはハマっていた
難波に専門店があるから、月2で通ってると言っていた
風俗に行くより格安だとはんは言った
はんは3DVRのゴーグルを買っていた
わたしは、はんの家に行って3DVRを試した
確かに違和感はあるがそこに女性がいる
はんは全裸になり1日5回、3DVRを楽しんでいる
はんには相当な時間を割いていた
それが面白いと感じでいたし、はんとの考え方とは逆の事を、はんと出会ってからの8年間わたしは選択し続けてきた
完全にわたしは良い意味ではんを「反面教師」にしていた
ただ少しづつわたしもはんに対して飽きがきていた
1本だけ映画を作ってくれればわたしは満足出来る
この8年間の集大成を形にしたいと考えていた
ある時、丁度、来年の今日に映画をピカスペースで公開すると言う企画を立ち上げた
はんは1年間の間に映画を作る事を約束してくれた
1年が経過しそうな時、完璧なシナリオにはんの生活がなっていった
当時、インバウンドの波が来ていた新世界一帯は中国マネーにより、物件現金買いが活発に行われていた
はんの大家さんもそろそろ年齢的にも色々整理しようと考えていた為、はんの物件を売る事にした
いわゆる立ち退きである
その時期が映画公開時期と重なったのだ、わたしは全ての条件が整った、映画は完成すると思っていた
公開日、楽しみにしていた人々が大勢集まったがはんは映画を作ってこなかった
完全に開きなおったはんが「僕はこんなもんじゃない 僕はこんなんもんじゃない」と集まった観衆に言っていた
はんは西成のシェアルームに住みはじめて、そこのオーナーが営業している立ち呑み屋で働いていた
天職だと騒いでいたがそこも長続きせず、西成で一番安い1日500円の「ドヤ」に住みはじめていた
わたしは、しばらく様子を見ようと思ったのと単純に興味が失せていた
はんもそれを察して、1年近くわたしを避けていた
1年が過ぎた位にどんよりした「課題」をぎっしり詰め込んでピカスペースに通いだしてきた
発する波動を見て
わたしは「あーあ 相変わらずやってんなー」と思った
仕事は、2年前の台風被害で特需になっている屋根屋をやっていた
昔、はんとケンカ別れした大工の親方がはんに声をかけて、仕事を工面していた
本当に色々な人々が手を差し伸べてくれる
西成から新世界に来て出会ったはんは8年が経過して日雇い労働者になり、ドヤで生活していた
完全に西成の人間になってしまっていた
日雇労働では本来の様に振る舞えない
プラスチックな希薄な人間関係
西成に戻れば、アンモニア臭と臭気を放つおっさんばかり
話し相手にもならない
部屋に帰れば3畳一間のベニヤづくり
辛うじてインターネットの膨大な情報世界のみをはんは取り込んでいた
ぱんぱんに膨れ上がった何処にもぶつけれない情報過多と、
それによって何度も繰り返すメタモルフォーゼをぶつける相手を探していた
案の定わたしは選ばれてしまった
どんよりした臭気を放っていた
かすかに死の匂いも感じた
正直、嫌だなと感じていた
「はるきくん 仕事の手を止めて ここに座りなよ」
「仕事より大切な事があるから 僕の話を聞きなよ」
YouTubeなど扱い、自分がユーチューバーになる話などを始めた
ある程度、はんのガス抜きも必要だと感じていたので、全てを肯定しながら話を進めていた
ピカスペースに来る回数も増加しだして6時間~12時間はんの話を毎回聞き続けた
わたしははんに出会って間もない時の「ユタ」の話を思い出していた
※ユタとは沖縄の霊媒師である
はんはユタに2度、帰路に立たされる度に相談していた
そして2度目にユタにこう言われた
「3度目もありますね」
思い出したがこのタイミングではないと思いユタの話は伏せた
はんの話はスピリチュアル系がおおくなった
「今からチャネリングをします」と言いだし
はんは両手を広げて目をつぶり
「アルクトゥルス星人 応答願います チャネリングをはじめます」
頭のてっぺんから閃光がはいり、足裏から地球のマントルを抜けまた頭から抜けるイメージを持つようはんに指示された
「はるきくん 宇宙を感じるだろう」
「はるきくん 浄化されるだろう」
引き寄せの法則、偶然では無く全ては必然、呼び込める性質などなどの話しを連日してきた
本人は気付いていないだろうが西成の臭気とは別に、微量な加齢臭を発していた
はんは45才になっていた
それは吐瀉物の様な饐えた臭いがする内容ばかりだった
わたしは完全に仕上がっているはんにある企画を持ち出した
わたしがはんに出来る事はそれしかなかった
令和1年11月15日にそれを決行した
元々欧米人がおおく来店するのがピカスペースだった
JAPAN TIMESに掲載された事もあり、欧米人はどんどん増加して行った
ピカスペースにはベジタリアン&ヴィーガン用の料理が無い
欧米人には野菜中心がおおかった
ヴィーガンバーガーを開発しようとしていた所だった
それだけニーズが増えてきたのだ、それをはんに開発してもらおうと考えていた
そしてはんには「手段」を持ってもらおうと思っていた
はんは色々な所にお呼ばれする
毎回、ただただ手伝っているはんを見てもったいないと思っていた
そこにヴィーガンバーガーの手段を持つ事により、出店と言う枠が出来る
それは自分自身で稼げる世界である
札幌時代の燻製の技術を使い、豆腐を燻製して毎日試作品をはんは作って行った
ピカスペースにある屋根裏を片付けて、客席を準備した
そこをはんの店にしてもらおうと考えた
店名は「ピカの屋根裏」だ
家賃や光熱費を全て無料で提供する代わりに、はんには条件をつけた
「この屋根裏の世界で全てを表現してくれ」
はんはノッタ
屋根裏と言う額がある事ではんはミニマムな世界観を屋根裏に作りこんで行った
準備に3週間かけた
はんはSNSを良く見るくせに自分自身の投稿などはせずに、あの投稿は面白くないなどよく言っていた
ピカの屋根裏のSNSページも作り、仲間達の協力でSNSは圧倒的に稼働した
はんはSNSに投稿しだしていた
屋根裏は週末だけの営業だった
11/15日オープンしてからは良い感じで廻りはじめていた
持ち前の凝り性の為、豆腐の燻製は大評判になった
「はるきくん 僕が精神的ヴィーガンだよ」
はんはノッテいた
たまたまNYから来たベジタリアンのアーティストに食べてもらった所
「NYだったら20ドルで売れるね」彼らはさらりと言った
完全にはんはノッタ
屋根裏で行われるイベント、小さな音でLIVEする微音Nightを企画してオーガナイズしだした
微音Nightと屋根裏は相性が良かった
素晴らしいイベントが生まれた
豆腐の燻製の話題を聞きつけた友人は、彼がオーガナイズする「蔦屋書店」でのマルシェ企画にはんを誘った
はんはヴィーガンバーガーで初出店する事が決まった
しかも蔦屋書店で行うマルシェ
場所は高知だった
ピカの屋根裏をOPENしてまだ1カ月も経っていなかった
はんは完全にノリにノッタ
マルシェは2ヶ月先だった
ピカスペースに来る外国人にも豆腐の燻製&ヴィーガンバーガーは連日売れた
はんはウィスキーや日本酒も出すようになっていた
冷蔵庫が半分以上使われようが、キッチンにはんの調味料が溢れようがわたしは何も言わないようにしていた
気持良くマルシェに突き進んで欲しかった
マルシェは2週連続の週末に高知で行われた
1週目、わたし達の友人達も多数参加していた為、はんは友人に便乗して高知に向かった
わたしはサプライズで当日蔦屋書店のマルシェに行った
「はるきくん ファッションダサいね」
はんは第一声にそういうとノリノリで楽しんでいた
2週目のマルシェの前日、はんは大量に仕込んだ豆腐と買い付けたパンを広げていた
「明日だろう 行かなくていいのか?」と声をかけた
1週目の時の様に友人達は参加していなかった
「足が無い」とはんは言った
「バスで行けよ」と私は返した
わたしはその後、4日間視察旅行があった為、新世界を離れた
帰って来てピカスペースの開店準備をしていた
掃除が終わって、空のはずのゴミ箱を持ち上げようとしたら「ズシッ」と重さを感じた
何だろうと中を覗くとジップロックの中に、綺麗にキッチンペーパーで包まれた燻製豆腐が入っていた
わたしは、それをゴミ箱から取り出して眺めた
小さいのに重かった
「ああそうか あのおしぼりの奥に隠した唐揚げは、何も言わず母が捨てていたのか」
それはまだ生きていそうな美しい綺麗な死骸だった
わたしは、ゆっくりと棺にそれを帰した
間も無くはんは「ピカの屋根裏」を辞めた
3ヶ月が経過した位だった
はんは8年経った今でも西成と新世界市場を回遊魚の様にぐるぐる廻っている
屋根屋は辞めて、家を格安で借りていた元大家さんの新世界市場にある弁当屋で昼間働いている
そこのアルバイトのおばちゃんが西成の飲み屋でもバイトしているので、便乗しておばちゃんと共に弁当屋が終わってから
その飲み屋でも働いている。
新世界市場周辺では「はん はんさーん はんちゃーん」など良く聞く
「おお 僕はこんなもんじゃないよー」そんな返しも遠くから聞こえる
わたしは、はんが話した「ユタ」の話を思い出していた
はんはユタに聞いていた
「僕は幸せになれますか?」
ユタは微笑みながら答えた
「寂しいかもしれませんね」
「ただ孤独では無いでしょう 」
「あなたの周りにはたくさんの人達が視えます」

Written by Haruki Kumagai
イマジネーションピカスペースWEB https://pikaspace.tumblr.com/


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