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西成ガギグゲゴ【七人の侍 DJリハビリ】

6年ぐらい前だったろうか
びっこをひいた瞳孔が開いた男と、服の上からモビルスーツのようなコルセットをした、えびす顔の男が訪れた
ふたりは関西人じゃないと、イントネーションですぐにわかった。
えびす顔のほうは、七人の侍のひとりで前に紹介した「番頭さん」
瞳孔が開いた男は、今回の主役の「DJリハビリ」
番頭さんはだいたいニコニコしながらしゃべりまくるが、DJリハビリはドスが効いた雰囲気で、番頭さんに調子をあわせながら振る舞っている感じの間柄だった
出会った当初、DJリハビリからは強烈な死臭を感じた
そろそろ逝ってしまうんじゃないかと思っていた
当時ふたりのアパートは一緒で、ピカスペースから歩いて3分のため、ふたりでよく通うようになった
その都度、番頭さんが酒をバラまき
たまたま居合わせたお客さんと宴会になる日々が続いた
DJリハビリも深酒すればするほどに、どんよりした死臭をバラまいていた
なんとも言えない質感をピカスペースに持ち込む2人組だった
陰と陽が混在していた
連れと呼ばれる連中もよく来るようになる
全員が今まで見たことのないジャンルの顔で、「ガギグゲゴ」にすらおさまらない世界観だった
連中は異質のノイズを放ち、5人以上集まるとピカスペースには他の客がまったく入ってこなくなり、「これはまずいな」と思うようになった
ふたりを引き入れてから、40才オ―バ―のノイズ連中がどんどん流れ込んできた
そのうち7人ほどに収まりだし、各々が発酵しすぎのノイズをあたりかまわずビチャビチャ吐き出していった
ピカスペース店内に混沌としたノイズ感が漂い、売上は悪くないが、このまま行くとピカスペースが転覆しそうと感じはじめていた
当時、ピカスペースの近場に雑貨屋があった
そこの店主が、この面子に加わりだした
その店はモグリで飲み屋もやっていて、そちらにガギグゲゴ連中を流すようにした
その店主も中々のガラパゴス・ノイズを放ち、もともとは裏ビデオで一発当て、当時は雑貨屋をしながら裏DVDを常連に格安で振る舞っていた
連中は少しずつそちらに流れて行ったが、それからすぐに雑貨屋は15年の歴史に幕をおろすことになる。裏ビデオで蓄えた財が底をつき、知り合って半年もしないうちに閉店したのだった
店主は音楽をやっていたので、このタイミングですべてを終結させようと思い「マイマイ供養」というイベントを、雑貨屋の閉店日にピカスペースで行った
雑貨屋の常連ノイズ連中を集めて音楽イベントを催し、すべてのノイズを相殺および昇華させるイベントだった
雑貨屋が閉店してからの連中は、ピカスペースにつるんで来なくなった
いつもひとりかふたりで、それは全員が仲違いしていたからだった
それからの彼らの動向を補足しておく――
ガ:50才ぐらいの自称レーベル運営。あまりにも他のお客さんに迷惑かけるため、ピカスペース初の出入禁止処分
ギ:65才ぐらいの自称ミュージシャン、800万円近い借金を返した後、完済LIVEを西成で開催。その後、自宅が不審火にあい全焼
グ:50才ぐらいの自称広告関係、失踪または死亡説
ゲ:七人の侍の番頭さん、解体業、今でもたまにピカスペースに来る
ゴ:今回の主役、DJリハビリ
他にも何人かいたが割愛する
「西成ガギグゲゴ」の構想は、この時の強烈な面子から生れたのだった
他のガギグゲゴ連中が週1か月1で来店するのに、DJリハビリは週6で6年以上通っている
DJリハビリとは長い時間を共有してきた
深酒すると、歩いて帰れなくなることが度々あった
もともと足が悪いこともあり、酒も適量を決めて、飲みきったら帰すようにした
その6年の間に5~8回ほど、入退院を繰り返していた
脳梗塞、足の手術、精神にも支障をきたしていたため、何度かの自殺未遂により強制入院させられたりもしていた
何度かお見舞いにも行った
退院すると、精神病院でナンパした入院患者の女性を連れて来て
「俺の彼女」と紹介してくれた
その女性も微かに死臭が漂っていた
通天閣から天王寺に向かうあたりに「てんしば」と呼ばれる公園のような場所がある
再開発が進んだ今では家族で憩える公園と、お洒落なカフェなどに変わってしまったが、当時は「たちんぼ」のたまり場であった 
年齢もかなりいった女性たちが、てんしば近辺によくいた
そこでは日掛け金融など個人の金貸しや、生活保護を斡旋してお抱えの物件に入ってもらい、そこから斡旋料としてアパート側から現金をもらう仕事など、あらゆるブラックな活動が行われていた
DJリハビリはそこに通い出し、その連中とつるんでいた
「てんしば」の話を聞くのがおもしろいので、わたしは別に問題ないと思っていた
「はるちゃん 、きのう客に飛ばれてな~、明日追い込みかけるわ」
などと聞くことがたびたびあり、電話越しにかなりドスの効いた口調で追い込んでいたこともあったが、まあいいかと思っていた
毎日毎日、店に来てはそんな話と、前は仲良くしていたガギグゲゴ連中の悪口で、聞いていても別段楽しくなくなっていった
延々とループする負の連鎖に、さすがに参っていた
ただなぜか、出会ったころの圧倒的な死臭がDJリハビリから消えていた
そこには、あぶらぎっしゅな見慣れたおっさんがいた
どんよりした空気を放つDJリハビリに、わたしはひとつだけ条件をつけた
ピカスペースに来る時の、最初の挨拶は元気良くお願いしますと
「はるちゃーん おはよー」
DJリハビリはそれを守ってくれた
毎日来だしてから、DJリハビリはいろんな人達と交流を持つようになった
DJリハビリは、すぐにお客さんとLINE交換をしたがる
特に女性と
後日知ることになるのだが、LINEの量がすごいらしい
それによって来られなくなるお客さんも少なくない
まあ精神病の認定を受けて、一日に70錠近い薬を飲んでいるのだから、依存するのもわからなくないが、少し恐く感じることも稀にある
定休日にプライベートな時間を楽しんでいるところに何度も電話が掛ってきて出てみれば「はるちゃん、サイゼリア行かない?」と来る
すっかりピカスペースの守り神のようになってしまったDJリハビリは、元馬主で3頭の競走馬を所有していた
馬券師としてもかなり凄腕で、1億円越えの馬券がいちど、
1000万円~5000万円程度の馬券は10回以上とったことがあるとわかった
わたしもたまに競馬をするので、ふたりで「競BAR」と言うイベントをピカスペースで13回やった
結果は5勝8敗くらいでプラスにはならなかったが、初めて馬券を買う人が増えて楽しかった
一緒にWINSに行って馬券を買ったりもしたが、わたしがいるときより、DJリハビリがひとりで勝負したほうが圧倒的に勝率がよかった
6年間毎日来るので、こんな感じに会話は落ち着いてしまった
「朝なに食べたの?」
「玉出の弁当」
「夜ご飯は?」
「吉野家」
DJリハビリがどういう経緯でこうなってしまったのか、わたしは全部聞いている
すべてを反射で返してくる彼を、その瞳孔が開いた感じなども含めて信用しているのだが、あまりにも生き急いだ人間は、こんなにも早く果ててしまうのかと考えさせられた6年間でもあった
DJリハビリは浅草生まれである
父方のじいさんが材木商を営んでおり
そこで父方のばあさんと暮らしていた
親父さんはチンピラのようだったと言っている
かなり裕福な暮らしぶりだったらしいが、6歳になったとき実の母親が引取りに来た
新しい住まいは、母親が営業しているラブホテルの一室だった
小学6年生で、3LDKのマンションでひとり暮らしになった
小学校の終わりから暴走族に顔を出しはじめ組織的にカツアゲをしていたらしい
水商売の家系に生まれた友人3人と一緒に
自宅マンションを基地にして、当時はあらゆることをやったと言っている
(ここには書けないことが多い)
高校1年になると初日でケンカして停学
停学開け、すぐに他校ともめて自主退学
16才でシャコタン、フェアレディZ240逆輸入を乗り回していた
当時はバブルの最中、モグリでBARのボーイもしていた
髪型は二グロだった
通っていたパチンコ屋でたまたま顔見知りになった男から名刺をもらった
尼崎の建設会社と書かれていた
そのタイミングで最初の嫁さんと知り合う
17才、尼崎から家出してきた女性だった
聞けば家族で万引きしながら生活していたみたいだ
友人がやらかしてしまい、その罪を被り少年院に8か月間入った
出所してから行くあてもなかったDJリハビリは、パチンコ屋で名刺をもらった尼崎の建設会社の男に電話した
この人物がDJリハビリに絶対的な影響力を持つことになる
いわゆる「おやじ」である
17才の終わりぐらいで尼崎に移住
18才で尼崎から家出した女性との間に子供をもうけた
20才、重量鍛冶鳶の頭になった
そのキレキレの手腕で建設関係者から「カミソリ」と呼ばれた
当時、重量鍛冶鳶の作業員はほとんどが刺青だらけだった
DJリハビリも刺青を入れたいと思ったが、「おやじ」に相談したところ、こう言われた
「親方を目指すなら入れていい」
「社長になりたかったら、刺青は入れるな」
DJリハビリは社長を選択した
22才でのれん分けが確定、
新幹線を運んだり、酒屋の脱水機据え付け、2200トンの重量物設置などを手がけた
22才で起業した時には、8人がついてきた
起業してすぐ保証人になり、1800万円持って逃げられるも、自力で返済
事業が安定するまでは、本当に大変だったみたいだ
母体から仕事はもらわず、逆に母体のほうに仕事を献上していた
標準語をしゃべれたことで、逆に信用されていた
よそができないことをやり、信用をどんどん積み上げ、ひたすらに突き進んだ
28才~33才で黄金時代を迎える
年商26億円、年収4000万円、従業員数300人
塚口にキャバクラを何軒も所有し
千葉にはフィリピンパブを
埼玉にカジノ
五反田に焼豚屋
馬主になり
浅草に持ち家
長野に別荘を持った
プラントの海外設置が多くなり、一年のほとんどを海外で過ごすようになったが、あまりにも速いペースで仕事をこなしていくうち、疲労の蓄積が膝に出始めた
重量物の荷揚げなどで、膝が少しずつ壊れていったのだった
38才の時、世話になった「おやじ」が急死する
精神的支柱を失ったDJリハビリは、億単位の案件を何件も抱える精神的重圧も重なって、40才で精神が壊れはじめた
なんとか会社を整理し、相応の退職金を全従業員に工面する
42才で会社をたたんだ
気がついたら北九州の山林にいた
自殺しようとしたところで、会社側から捜索願が出ていたためにそこで確保される
わたしが出会ったころは、西成に拠点を移し、貯金を全部3人目の奥さんに与えて別れた直後だった
膝はいまでも杖をつかないと歩けない
精神のほうも70錠近い薬を毎日飲んで、ギリギリ保っている
そんなタイミングで「番頭さん」と知り合い、ふたりでピカスペースに通うようになったのだった
当初放っていた死臭は、ピカスペースに来ていろんな人達と関わることで、緩和していったんじゃないかと思う
DJリハビリを釣りに誘う友人がいるし、
DJリハビリの家に泊まる友人も、その家でサシ飲みする友人もいる
何人かの理解ある女性が、LINEの相手を苦にせずしてくれている
ありがたい限りだ
わたし個人としては、たまに一緒に買う馬券で万馬券をとって、
どこかの温泉街でスーパーコンパニオンを呼びたい
その時の顔を、DJリハビリの遺影写真にしようと考えている

Written by Haruki Kumagai
イマジネーションピカスペースWEB https://pikaspace.tumblr.com/

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