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『美と共同体と東大紛争』を読んだ

2021/3/15、家にて読了。

東京大学教養学部900番教室。50年ほど前に三島由紀夫と東大全共闘による伝説の論戦が繰り広げられた場所として、現在も名高い。映像では何回か観たことがあったが、決まってその自由闊達な討論のスピードについていけず、ただただその異様な雰囲気に呑まれるだけであった。文章で読む段になっても、美・政治と文学・共同体と天皇等、縦横無尽に移り変わる議論に振り落とされまいとして、すっかりくたびれてしまった。しかし嫌なくたびれ方ではない。スポーツをした後に草地に寝転ぶような、快い疲労である。

討論の書き下しの後に、三島先生と全共闘数名による両サイドからのコメンタリーがつくという構成になっている。所々かなり難解なところがあり、ぼくの貧相な頭ではその議論の全てを理解することはできなかったことは、最初に白状しておかなければならない。しかし暴力とエロティシズムの関係や、芸術における概念と個性、現実的あるいは理想的天皇とは何なのかといった論題については、とても面白く読むことができた。

この議論が幾世代後のぼくを今も惹きつけてやまないのは、話している内容は勿論だが、当時の900番教室が孕んでいたであろう熱気と混沌だ。壇上では赤ん坊を抱いた全共闘C(ぼくは以前『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』というドキュメンタリー映画を観たことがあるのだが、そこから推察するにこの全共闘Cとは芥正彦氏のことである。かなりアクは強いが不思議な格好良さのある人物で、かつて「東大一の論客」の名を恣にしたという)が舌戦を戦わせ、客席からは「バカヤロー」という野次が飛ぶ。満員の会場から手洗いへ行く道が見つからないために、耐えかねて窓ガラスを破って脱出する学生がいる。入口には、三島由紀夫を「近代ゴリラ」と揶揄する張り紙がしてある。要するに滅茶苦茶なのだ。

前述のドキュメンタリー映画を共に観た友人は「学生運動をしていたひとたちが、結局権力の象徴のような大学教授や公務員になっているのは皮肉だね」という旨のことを言っていた。現代のぼくらは学生運動という営みが破綻したことを知っているから、今更60年代の学生闘争が持っていたような熱に浮かされるようなことはない。ただ、心のどこかで、熱に浮かされてみたかったなあ、とも思うのだ。そりゃゲバ棒を持って立てこもるなんてことはぼくの性には合わないけれども、それくらいの熱量を持って自分たちの国の政治に希望を賭すようなことができた世代が羨ましいのも事実だ。甘ちゃんの学生が何を言うのだと自分でも思うが、この目で革命を見てみたい、漠然とそんな気がしてしまうのだ。


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