見出し画像

『笑い』を読んだ

6/26、やなか珈琲店にて読了。

「面白くなりてえ」と強く思っていた時期に、ふと目に留まって購入した。意気揚々と読み始めたはいいが、当時のぼくは1冊も哲学書を読んだことがなかったので、あまりにも難解過ぎて早々に投げ出した。笑いって難しいんだなあと思った。

時が経った。本棚の隅で息をひそめていた『笑い』にもう1度挑戦してみる気になった。今ならこの本の読み方がわかる気がしたからだ。哲学書というものは一気に読もうとしてはならず、毎日頁数を決めて地道に読むのがよいのではないか。1度挫折した『笑い』をこの仮説に沿って読むことで、自分なりに哲学書を読む時の方法論を確立したかった。

ベルクソン哲学の中で、一般に本書は特異な存在として位置付けられている。「時間」に関する概念をめぐってアインシュタインに論争を仕掛けたエピソードが有名なように、ベルクソンの専門は「生の哲学」、つまり生命の創造性に関わるもの(もちろんこれには「時間」も含まれる)であるはずだ。それが『笑い』とは…一見不思議に映るが、訳者による解説では、本書があくまでベルクソン哲学の体系に沿ったものである可能性が示唆されている。いったいに、この解説では本書の内容がよくまとめられているので、本編の後で一読すると内容整理の一助となった。

「笑い」の細かい箇所に関してはベルクソンが詳しく説明している本編に譲るとして、ここでは本書に通底する概念だけに触れることにする。要するに、人間的なものにみられる「こわばり」こそが笑いを引き起こすのだ。生という動的なものに、こわばり(硬直性)という静的なものが作用する。こうした「ぎこちなさ」が滑稽を生む。そうした滑稽を体現する者に、我々は笑うことにより恥辱を与える。そして笑われる者を社会的な存在へと矯正する。

注意したいのは、ベルクソンはある明確な定義を打ち立てて、演繹的に「笑い」を探ろうとはしていないことだ。むしろ定義をある程度抽象的なレベルに留めておくことで、個々の事実から帰納的にそれを実証しようとする。

結論からいえば、これを読んだところで特に面白い人間になれるわけではない。そもそも本当に面白い人間は、本を読むことで面白くなろうとはしない。しかし、ノーベル文学賞を受賞した偉大な哲学者がクソ真面目に「笑い」というものを考察しているというだけで、これはちょっとした見ものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?