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『1973年のピンボール』を読んだ

2021/6/22、エクセルシオールにて、海老とブロッコリーのビスクを食べつつ読了。エクセのフードはけっこう美味しいので重宝する。

近い将来、たとえば2年後の自分が、何をしているのか上手く想像できない時期がある。いつかは終わりが来ると頭では分かっていても、今の生ぬるい平穏がいつまでも続くような気がして、もう何も考えないで、どこまでも沈んでいってしまいたい時がある。そういう時は決まって、自分がどこにも行けないような気がしてくる。出口のない入口を突き進んできてしまったのだと錯覚する。『1973年のピンボール』はまさにそうした季節のために存在する。

「鼠三部作」として知られるシリーズのうち、第2弾にあたるのが『1973年のピンボール』だ。本当は最初の『風の歌を聴け』の後に読むべき本なのだろうが、ユニクロが村上春樹コラボTシャツを発売したのはご存知だろうか?ぼくは居ても立ってもいられなくなって、気付いたら本書の表紙がデザインされたものを購入していた。着てしまったからには読みたくなる。前に買ったのを思い出して本棚を探り始めたら、もうページをめくらないわけにはいかなかった。まあ、そうたいした理由でもないんだけど。

70年代といえば、学生運動の限界が露呈し、理想とされた「革命」のヴィジョンが塵と化した時期だ。若者は情熱を注げるものを失い、何を信じて生きていけばいいのかわからなくなった。こうした背景を持つ初期の村上作品には、都会的な虚無感が充満している。選択を迫られているのに、なにが正解なのか確信が持てないし、選択する気力も湧いてこない。

およそ50年後の世界を生きるぼくらも同じように途方に暮れている。主人公のひとりである「僕」は通訳の仕事をしているが、現代のぼくらにはDeepLがある。インターネットが深く食いこんだ社会に生きるぼくらと、50年前を生きた彼らの悩みの質は違ったのだろうか?おそらく答えはNoだ。だからこそ、ぼくらは未だにこの作品に共感する。もしかしたら、生きていく上で誰もが通るであろう悩みのことを、青春と名付けるのかもしれない。

たいしたことじゃない。ひとつの季節が死んだだけだ。

p.s. p.32に「外語大」が登場して嬉しいのがファン心理だ。

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