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Outsider

本記事では、ショイヨド=ワリウッラーとジュンパ=ラヒリが共有するアウトサイダー的視点に着目して論じていく。活躍した世代には大きな差異があるものの、この両名の作家は「アウトサイダー」であるという点で似通っている。複雑な民族アイデンティティーを持つ両者の生い立ちを整理しつつ、それぞれの作品に反映されたアウトサイダー的視点が伺える箇所について考察していく。


まず、ショイヨド=ワリウッラーの生涯を整理する。1922 年に東ベンガルの由緒あるムスリムの家庭に生まれたワリウッラーは、転勤の多かった父親に連れられ、バングラデシュ全土を転々とする少年時代を送った。そのため彼は特定の地域に愛着を持つことがなかった。また一箇所に留まることがないため、ワリウッラーはあまり友人をつくることができなかったとされる。その結果、彼の内向的な性格が形成されていった。分離独立直後の混乱が残る 1950 年に西パキスタンのカラチに転勤になってからは、彼は後半生のほとんどを、諸外国のパキスタン大使館を転々としながら過ごした。


ワリウッラーのアウトサイダー性について、訳者の丹羽京子による『赤いシャールー』の解説に興味深い記述がある。「(ワリウッラーは)インサイダーとして生まれたアウトサイダー、もしくはアウトサイダーとしての目を持ったインサイダー、いずれにしてもそのボーダーラインにいる人物だったのではないか」という指摘である。これは言い得て妙である。ワリウッラーは東ベンガル人として生まれながら、その内気な性格と歴史が引き起こした動乱に翻弄され、ベンガルの地に留まり続けることは叶わなかった。しかし、決して彼自身がベンガルの地を厭っていたわけではない。ワリウッラーの配偶者であるフランス人アンヌ=マリーの手記からは、「(ワリウッラーは)信仰心篤いとは言えないがベンガル文化やムスリム文化には人一倍強い誇りを持」っていたことが読み取れると、前述の解説で指摘されていることがその証左である。自身を形成するアイデンティティーの真髄に近づきたくても、様々な理由で近づくことができない。このアンビバレントな儘ならなさが、一見淡々とした文体の背後に隠れているのではないだろうか。


『赤いシャールー』のプロットは、ひどく現実主義的である。主人公のモジッドは、生計を立てるため、神の下に生きる聖人のふりをして村人たちを騙し続けている。真の信仰心の持ち主であれば、このような罰当たりな行為はできるはずもない。モジッドは生活の上で都合よく宗教を利用するだけでなく、その結果生じた罪悪感についても「神の僕である自分はなにも知らず、人生についてもなにもわかるわけではない。だからこそ、自分の過ちを神は許してくださるだろう」と神の存在を利用して正当化する。


このような人物造形は、前述のように、作者であるワリウッラーの信仰心もまた比較的希薄だったために、可能になったのであるといえる。もし作者の信仰心が篤かったならば、「個人の意思と信仰との衝突により引き起こされる葛藤」というテーマにより焦点が当てられる可能性が高いためである。事実、クリスチャン作家として知られる三浦綾子は『銃口』で、遠藤周作は『沈黙』で、グレアム=グリーンは『情事の終り』で、そうしたテーマを扱っている。ワリウッラーはムスリムだが、信仰心自体はどの宗教であろうとも普遍的に存在するものであり、信仰心が篤ければムスリム作家も同じように前述のテーマを扱うとみてよいだろう。しかしワリウッラーは、個人対宗教というテーマを主に据えることはしていない。『赤いシャールー』で暴いたものはあくまで社会全体についてのことであり、宗教は物語世界を作るうえでの装置に過ぎない。ワリウッラーは、宗教というものが、ある者にとっては何よりも大切であり、別のものにとってはそれほどでもないということをよく理解していた。


『赤いシャールー』は、分離独立の翌年である 1948 年に自費出版された。誰もが宗教に翻弄されていた時代に、このように醒めた視点で宗教を扱うことができたということには、ワリウッラーの作家としての資質以上に、彼の持つアウトサイダー的な視点が大きく関係してくるのではないだろうか。


一方、ジュンパ=ラヒリの持つ言語的背景は、ワリウッラーにもまして複雑である。ラヒリは 1967 年にロンドンに生を享けた後、幼少期に渡米しロードアイランド州で育った。彼女の両親はカルカッタ出身のベンガル人であったため、ラヒリは家ではベンガル語を、外では英語を話すことを余儀なくされた。彼女は『三角形』というエッセイの中で「わたしのこの二つの言語は仲が悪かった。相容れない敵同士で、どちらも相手のことががまんできないようだった」と形容している。この経験は、ラヒリの中に自身が根無し草であるという感覚を醸成するためには十分であった。


特筆すべきは、第三の言語の存在である。1994 年にフィレンツェ旅行をした際、イタリア語の響きの虜になったことをきっかけに、ラヒリは趣味として 20 年間イタリア語を続け、2012 年の夏にはローマに移住している。自身初のイタリア語によるエッセイ集“In Altre Parole”(邦題:べつの言葉で)の冒頭では、幻想的な作風で知られるイタリア人の作家アントニオ=タブッキの「……わたしには違う言語が必要だった。情愛と省察の場である言語が」という言葉を引用している。タブッキも、フランスのソルボンヌ大学に通った後、大学でポルトガル語の授業の教鞭をとった多言語的な作家である。ラヒリがタブッキにシンパシーを感じてもおかしくはない。イタリア語との出会いによって、彼女はベンガル語と英語との間で揺れる自分のアイデンティティーに、ひとつの結論を出すことができたようである。すなわち、この三言語のトライアングルの中心に存在する空白、アウトサイダー的感覚こそ、彼女の創作意欲の源であるということだ。


彼女の文体は、淡々とした筆致のワリウッラーとは異なり、きめ細かで温かい。『赤いシャールー』では、聖者(ピール)の襲来や嵐の到来など、いくつか山場となる事件が確認できるが、ラヒリの作品においては特に大事件は起こらない。人々は粛々と日常生活を送り、ラヒリはあくまでその範囲内で彼らの感情の機微を切り取り、余白を残しつつ読者に提示する。


彼女の作品の持ち味を醸成する要素のひとつに、民族アイデンティティー的にはアウトサイダーでありながら、文化的にはインサイダーであるという二重性に根差す洞察力がある。彼女はベンガルに長期間住むという経験をしたことはないが、家ではベンガル語を話し、ベンガル料理を食べる。そうであるからといって、住んでいる場所を故郷であると言い切るには違和感があるようだ。この性質が、かえってラヒリを自由自在に様々な人々の視点に立たせるのである。それぞれの国の文化を、自然にそこにあるものとして描くことができるのは、文学者にとっては大きな強みであるように思う。


ワリウッラーとラヒリをそれぞれ分析してきたが、ここで両者を比較しつつまとめる必要がある。彼らは「二重性を持つアウトサイダー」であるという点で共通している。ここでいう二重性とは、ある側面ではアウトサイダーであり、別の側面ではインサイダーであるという性質を指す。かえってこうした性質により、ワリウッラーとラヒリの作品には人間に対する大きな愛が通底していることがみてとれる。


しかし、その文体や自分のルーツに向ける感情には大きな差異がある。ワリウッラーはシニカルに人間を描き、ラヒリは温度のある文体を以て人間を見つめる。また、ワリウッラーは自分のルーツであるベンガルに全き誇りを持っていたが、幼年時代のラヒリは異国の地において、自分のルーツがベンガルであることに誇りと恥ずかしさがないまぜになった複雑な感情を抱いていた。こうした差異はあれども、この二人のアウトサイダー的視点を持った作家たちの作品は、今日も全世界の人々を魅了している。彼らは、国境に捉われない、全人類共通の物語を創出することに成功したのだ。

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