ヘーゲル まとめ(随時更新)

ヘーゲルが行ったこと

カントを批判したフィヒテシェリングの哲学を批判的に統合、ドイツ観念論を完成

カント:現象とモノ自体を完全に分類
    現象については理論理性で把握することができるが 物自体については人間に把握することができないのだから その領域は実践理性で対応する必要がある

フィヒテ:理性が二つに分かれるのはおかしい
     自我を根元に据えた一元論
     自我の中に理論理性と実践理性を包括、 一元的に扱えるように
     自我が世界を作っているのだから物自体に到達できる

シェリング:自我が世界を作っているという考え方に反対
      絶対者が精神と自然を作っている
      現象もモノ自体も根元的には同じもの

悪無限

シェリングの【絶対者】は非我によって影響されない、絶対かつ無限的なもの
一方、絶対者から生み出される精神などは絶対者と質的には変わらない

無限者と生み出された有限者は質的に同じものになるはず
しかしシェリングは無限者と有限者を対立した存在だと定義

無限者は非我に影響されないはずなのに、 対立した、言い換えると自己以外のものが存在するのは致命的な矛盾

【悪無限】…無限者が自己に対して、他者を自己の外部に持つこと
【真無限】…全てを自己のうちに含み込み、 他者のもとにあって自己である無限

【絶対精神】

世界は絶対精神によって作られている、 その絶対精神は我々を何処かから見下ろしている存在ではなくて、 我々そのもの
全ては絶対精神の一部であり、その現れ
スピノザの【神即自然】

神は神自身の同一性を保ったまま、 そこに内包される有限者が変化を繰り返していく。
この営みこそが、世界であり【歴史】

絶対精神は【全知】ではあるが、 【全能】ではない
人間は絶対精神の実行者として【自由】と【絶対的な真理】の獲得に向けた戦いを繰り返し、 この世界を形成してきた。それが【歴史】。
【理性の狡知】…人間の情熱を利用して、自由を実現させようとする絶対精神の働き

その過程の中でいずれカントのいう物自体にあたる真理にも到達できるだろう

弁証法

歴史が進むにつれて、自由に近づくプロセスにある法則性

ヘーゲル自身は弁証法という言葉をそんなに使っていない
次のイメージもヘーゲルが提唱したものではない

【テーゼ】と【アンチテーゼ】の主張の核を保存しながら、 両者の立場を離れて新しい立場【ジンテーゼ】に高まる
…【アウフヘーベン(止揚)】

この弁証法のプロセスが無限に繰り返されることで、 より高みに登っていき、最終的には絶対精神を捉える【絶対知】に至る

存在においても弁証法プロセスが根底の法則になっている
例)種というテーゼ、種を否定するというアンチテーゼ
→アウフヘーベンされ、芽というジンテーゼに
芽というテーゼ、それを否定するアンチテーゼ
→花
この弁証法のプロセスそのものが『植物』

人倫

真の自由を手に入れるためには、 人間の道徳法則だけでなく、具体的な制度が必要
カント「実践理性による意思決定、つまり道徳法則が必要」
ヘーゲル「道徳法則だけで人間社会が自由になるはずがない」

真の自由を手に入れるためには、制度、つまり法律が必要
ただ、法律でがんじがらめにするだけでは当然自由なんてありえない
道徳法則と、法律がアウフヘーベンされることによって到達する 【人倫】にこそ、真の自由が実現できる

個人の自由というテーゼには、 家族をはじめとする共同体というアンチテーゼ
これらをアウフヘーベンさせることで国家が生まれる
国家こそが人倫の最終形態

『精神現象学』序文と緒論

序文 学的認識について
緒論 現象学の意図と方法

実体=主体…「真に実在するもの」

ヘーゲルは従来の哲学者が考えていたような実体の考えを拒否
実体は今まで、「固定的・静止的な自己同一性」として、
また人間の認識、 実践活動の彼方にあるものと考えられてきた
ヘーゲルはこのように人間の認識の彼方に実体があると考えない

「私の考えは、体系そのものが叙述されたときに初めてなるほどと是認されるようなものではあるが、この私の考えによれば、大切なことは、真理を実体としてだけではなく、主観としても理解し、表現するということである。」

G.W.F. ヘーゲル『精神現象学』 (平凡社ライブラリー P32)

「生きた実体は、実際には主観であるような存在である。同じことになるが、実体は、自己自身を措定する運動、自己が他者となることを自己自身と媒介するはたらきである限りでのみ、実際に現実的であるような存在である。実体は主観としては純粋で単一な否定性である。であるからこそ、 単一なものを二つに引きはなす、つまり対立させて二重なものとする。この二重作用が二つのものの無関心なちがいと対立をさらに否定する。真理とは、このように自己を回復する相等性もしくは他在において自己自身へと復帰することにほかならないのであって、一本源的な統一そのもの、つまり直接的な統一そのものではない。」

G.W.F.ヘーゲル『精神現象学』(平凡社ライブラリー P331)

自己自身を指定する存在は人間のこと
人間は常に自己同一性を保とうとする

これは外部と何のかかわりもなく自己を維持しているイメージではない
外部と関わりながらも自己を維持する
これが主体の大きな特徴

自己の中にある思考を発言したりして概念となって
外に出たとする
概念は自己の外に出た瞬間、自己と概念が切り離され、
概念は他者性、対象性を帯びる(投影など)
言い換えると概念が自己にとってよそよそしいものに見える

逆にこの分離された自己と概念が統一されるときもある

例)神は自分が持っていた概念だった
それに気づいたとき、自己と概念は統一され、
二つを包み込む形でより度量を大きくした自己が生成される

ヘーゲルはこのように、自己(人間)が自己自身を生成していく
運動性にこそ真理があると考えている
真理は永遠なもの、不変なものではない
 運動性、時間性こそが真理

緒論「現象学の意図と方法」 では副題のとおり、現象学的な方法論の話がなされる
ここでの関心事は真理をどう突き止めるか

ヘーゲル以前の哲学では、主観と客観という二元論的な考え方をしていた
そして客観的な実在を主観がどう吟味するかという図式で考えていた

そのときに尺度・道具となるのが「認識」
客観的な実在を吟味するには 「認識」 という尺度が必要だが、この尺度が偽物かもしれない
完全に正しいという保証はない
そうなってしまうと大問題で客観的実在を吟味することができない

では認識のときに生じる影響を後で差引いたらよいと考えたりもできる
影響を差し引くものがあるとして、
それ自身が正しい保証はどこにあるのか
→主観客観の二元論を突き詰めて考えていくと、認識に対して不信になってしまう

認識をそのように「道具」や「手段」と考える限り
われわれは「対象そのもの」には到達できないという議論に

即自…客観
   Godや全知全能の哲学者の視点から見たもの
対自…主観
   自分に対してあるものという意味で「対自」

ヘーゲルは、主観(対自)と客観(即自)の対立という枠組みは、錯覚だと考える

意識のなかの主観的な画像と意識の外部の客観的な実在を比較、観察することのできる第三者である主体が存在するかのような錯覚に陥っていると考える
こんな変なものは存在しない
第三の主体も結局は主観的な存在にすぎない

精神現象学は「現象する知」を対象とする
緒論でヘーゲルは「知」と「真」という2つの概念を提示

知:主観的、自分にとって正しいもの
真:客観的に正しいもの

注意点
どちらも結局は意識の対象
真は客観的に 正しいものだが、 意識にとって客観的に見える

私の中で「知」であったものは、
「真」 と出会うことで否定される
そしてその「真」が今後は私の「知」になる

こうして時間がたてば、この「真=知」 も 「新たな真」によって否定される
そしてこの「新たな真」が「知」のポストにつく

はじめに真と思われるものはそれについての知を生む
そしてその知が新たな真を形成する
このような運動を繰り返す
精神現象学ではこの運動がひたすら叙述される

自然で素朴な意識が、知をもち、その知が徐々に真実の知にまで高まっていく全過程が描かれる
そのゴール地点が「絶対知」

この道筋は、自己意識が自分の知が真のものでないことを知る挫折の連続
獲得された知が「じつはそうではなかった」 という事態が繰り返し反復される
そうして常に人間は現状の矛盾を乗り越えようとする

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