「もののけ」の未規定性
御意。感動的movingという言葉はふつう規定可能なものたちの相互関係に対して使われるが、僕が映画評でこの言葉を使うとき、仰言るような「畏怖させる力」に対して使う。規定されたものたちにmoveされることと、未規定なものたちにmoveされることを、徹底的に区別する。僕の映画評での言語用法です。 https://t.co/09C91WzxfD
— 宮台真司 (@miyadai) January 16, 2022
日本の演出伝統では、いきなり妖怪やバケモノを登場させず、何かが居そうで目を凝らさざるを得ない暗がりや暗闇を描くという「未規定性の演出」が大切でした。最近は『呪いの家』(Netflix、三宅唱監督)が、黒沢清を経由して伝統を継いでいます。シニフィエを与えがたいシニフィアン=不穏なもの=徴候 https://t.co/LOzI9Emow8
— 宮台真司 (@miyadai) January 16, 2022
柳田國男や吉本隆明は徴候的なものに開かれた身体を、神隠しに遭いやすい人として概念化しています。もうお分かりのように、僕の映画評は、徴候的なものに開かれた身体を徹底的に擁護することを、初発の目的にしています。こうした擁護を近代学問の枠内で展開するのが難しいので、映画評を始めました。 https://t.co/5bXbCRQqS2
— 宮台真司 (@miyadai) January 16, 2022
柳田と吉本を敷衍すると、神隠しの本質は「徴候的なもの(シニフィアン過剰)との出会い→変性意識状態(トランス)の触発→普段はしないことを平気でしてしまう」という回路にある。初期の柳田や共同幻想論の吉本は、この回路をパフォーマティヴに擁護している。僕らも性愛においてこの回路を反復する https://t.co/emrsaNF3ww
— 宮台真司 (@miyadai) January 16, 2022
「もののけ」という言葉の意味は、「意味を与え、規定しようとすることの困難」を自ら告白している。
「け」は中西進氏によると「ぼんやりと漂うもの」。
「もの」には可視化できない対象も含まれる。「ものさびしい」「ものがなしい」等。
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