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スポーツと公平性(2024/02/04)

 トランスジェンダーの水泳選手が女性に性別以降後に米水泳界を席巻したという記事を見た。こういう話を聞くと、トランスジェンダーが女子スポーツで良い結果を出すなんて許せないと思う人間もいる。しかし、トランスジェンダーでなくても、陸上競技では、テストステロン値が高いという理由で女子競技への出場を制限されたケースはいくつもある。
 競技の公平性を保つためらしい。確かに肉体的な性差は存在し、特に陸上や水泳などの原始的なスポーツでは男女で分けるのは公平性のために合理的だと思う。しかしこの言い分には些か疑問が残る。そもそもスポーツは差を競うものである。その差によって雌雄を決する。しかし公平性のために個々人の差は考慮されていない。足の長さも違えば、筋肉量も異なる。日本人がジャマイカ人に勝てないことへの不公平は問題にはなっていない。
 そもそもスポーツにおける公平性とは何なのか。
 色々考えたが、結局どっちが勝つかわからないという状況が大事である気がする。プロ野球選手が少年野球の子供たち相手にボロ勝ちしていても誰も面白くないということだ。経験や練習次第で結果が変わる。おそらくそれが、公平性の理想形態なのだと思う。そこに人は熱狂するのではないか。
 だからこそ女子スポーツでは練習次第で結果が変わる範囲のテストステロン値が設定されているわけだ(この値が科学的に妥当かはわからない)。
 人類の公平ではなく、見ている者がフィフティフィフティに感じられる前提。それがスポーツにおける公平ではないか。
 そう考えると、種目にもよるが、パラスポーツは進んでいるように感じる。車いすバスケットなどは障害の程度によって選手それぞれに1.0から4.5点までの点数がつけられ、コートにいる選手の合計が14点を超えてはいけない。こうすることで公平性を確保してる。
 また、格闘技や重量挙げなどでも、重量別というさらなる細分化がなされている。
 男女の線引きだけで公平性を保とうというのは無理がある。陸上や水泳などでも公平性のための更なる細分化が進むことを予想しているが、テストステロン値をもとに細分化するのだろうか?難しい議論になりそうだ。
 もともとスポーツは人間の限界への挑戦であったように思う。しかし、これからはおそらく、公平性に基づいた熱狂のための演劇へと変貌する。それは女子スポーツという枠組みの綻びから生じるのではないだろうか。

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