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ガチャと自由意志、そして出会い

 親ガチャ。担任ガチャ。恋人ガチャ。ガチャが接尾辞になりつつある。
 選択の余地なく、運任せで、自分の行動ではどうにもならないという意味であろう。キャッチーな言葉だが、あまりにも当たり前のこと過ぎてわざわざ言葉にすることに違和感がある。
 私たちは自らどこまで選択しているだろうか。産まれは選択できない。親の生まれたことろで育つ。そこで誰に出会うかも選べない。考え方が遺伝や環境で決定づけられるが、どちらにせよ選択などしていない。
 自己の存在そのものが偶然の産物であり、ガチャなのだ。
 それでもなお、わざわざそのような言い方をするのは、自分の望んだようにいかない人生に対して、1つの納得の付け方なのだと思う。 
 いや、むしろ自由意志という傲慢な考えへの妥当なアンチテーゼなのかもしれない。悪い環境でも、やる気があればなんとかできる。出来ないのであれば、努力してない自分が悪い。下剋上を遂げたインフルエンサーや、恵まれた環境で育ったことに無自覚な成功者がよく使う良い回しだ。努力できるのは、そのように生まれてそのように育ったから。その点でかなり恵まれていると言える。おそらくだが、人生を大きく変える自由意志など存在しない。自由意志も多様なガチャの寄せ集めなのだ。自分が選びうる未来は蓋然性から逃れられない。
 ガチャの影響を取り去る方法は、新たなガチャをひくしかない。わかりやすく言うと、出会いである。それは人だけではない。ゲームでも、映画でも、文章でも、自然でも。何かに出会えば、自分に何か変化が起こる。それもまた運任せだが、親ガチャと嘆くよりは幾分かマシな気がする。ガチャを引くことを辞めた人は、運命は変えられないと嘆くしかない。
 だから、もしこの文章というガチャを引き当てたなら、誰か何かに出会おうとしてほしい。
 
 
 

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