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「ステレオタイプの言葉」狩り

 お母さん食堂が少し前話題になった。高校生たちが、お母さん食堂という名前を変えるため、署名活動を行ったものだ。ネット上では厳しい批判にさらされた。

 結果的に署名は7500人程度集まった。

 一体あれはなんだったんだろうか。

お母さん食堂の構造分析

 ここには、三者の登場人物がいる。まず、署名を集めたり、署名をしたりした、賛同者。そしてネット上で批判した、批判者。最後に、傍観者である。

 賛同者の根拠は、女性が食事を作るべきというアンコンシャス·バイアスを助長させるというものだった。それに対して批判者は、ほとんどまともな論点を与えなかったが、唯一「言葉狩り」というまっとうに見える反論をしてみせた。

 この二者は、互いに論点の違う形で、水掛け論をしていたわけだ。(だが、少なくとも署名の役割が問題提起ならば、皮肉にも批判者こそがそれに助力していた。)

 そして、傍観者はどちらの主張にも違和感を覚えながら眺めていた。

  なぜそうなったかというと、お母さん食堂という言葉が、過去と未来で異なるニュアンスを持つからだと思う。少なくともお母さん食堂と聞いて、マイナスイメージを持つ人は少ないし、どちらかというと昔食べた懐かしい味というニュアンスを感じる(おそらくそれもバイアスなのだが)。そこに急に将来バイアスを作ると性的役割分担の話が出てきて、いわゆる良い思い出をぶち壊したのだ。そこで批判者は反射的に反論した。だからこそ的を得ない感情的な批判になってしまったのではないだろうか。批判者は過去の思い出に浸り、賛同者は未来を見ていたのだ。傍観者は、それを見て首を傾げていた。(単純にアンチフェミニストが批判していただけかもしれないけど)


言葉狩り批判というまっとうさ

 この出来事は感情的側面が強かったとして、それでも言葉狩りという批判はある程度まっとうに見える。だが、少なくとも署名を集めるのは問題提起のためであるし、強くても、お願いという程度にとどまる。

どういった文脈で言葉狩りが問題になるかはさらに吟味しないといけないが、ここではさほど論点にならない。

言葉をなくせばバイアスは消えるか

(やっと主張したいところにたどり着いた。以上の文章は読むほどでもない。)

 今まで生きてきた中で、少なくとも母親が食事を作ってくれた方が圧倒的に多いのではないだろうか。食事は女性が作るものというバイアスがあるとすれば、そういった過去の経験によるはずだ。高校生たちの方向性は間違っていないと思うけれど、そういった問題意識を持つのは大事だけれど、(結局消えないだろうが)言葉を消しても、意識は変わらないというのが私の意見だ。

 ステレオタイプを表す言葉を消そうとして、言葉狩りという批判がくる。最近のお決まりのパターンだ。こういったアプローチは明らかな差別発言には効果があるけど、ステレオタイプの言葉には難しい。なぜなら、言葉そのものがステレオタイプなのだから。

 私は代替策として、違うアプローチを提案する。それは違う文脈で、ステレオタイプの言葉を使うことだ。

「女子力」が良い例  ステレオタイプに縛られない言葉の使い方

 今時、男女問わず女子力という言葉は使われる。女子力は確かにもともと、女子は家事ができるとか綺麗好きとかそういったイメージ(ステレオタイプ)からきているが、今では、そういった能力に対して単純に誉め言葉として使われる。そういう変化を作るべきだと思う。

今の時代には今の言葉がある。

私は最近、家事の手伝いをするとき、「嫁入り修行」だと言っている(一応私は男です)。料理を作ったり、洗濯にも技術がいるわけで、そういった暮らすための技術を磨くという意味で使っている。


 つまり、ステレオタイプを表す言葉をステレオタイプに縛られない文脈で使うのだ。



それでもステレオタイプを気にするなら、それは発生論の誤謬である。そういう人は女という漢字の由来を調べてみると良い。




(このアプローチにはもう1つ意味がある。それは、過去のステレオタイプに縛られつつ、その方向性で努力してきた人たちを否定したくないという気持ちがある。あなたたちの頑張りはステレオタイプに縛られた愚かな生き方だったとはしたくない。言葉の意味合いを広げるこのアプローチはそういった配慮も含んでいるんじゃないかな......)




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