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多義性

 多義性という言葉を私はよく使う。

多義性とは、ある対象が複数の意味で用いられ得ること、あるいは解釈できることを指す。または完全に一意に定義できないことをいう。曖昧さ (ambiguity)。

https://ja.wikipedia.org/wiki

 私は、多義性があるものにとても惹かれる。
 例えば、花火。同心円状のカラフルな火花が夜の暗さの中に映し出され美しく感じる。これはデザイン的な視点だ。しかし、花火は単純な話、炎色反応でしかない。これは科学的な視点だ。また、花火というだけで夏を想起させる。これは文学的視点とでもいえばいいのだろうか。花火は人生のはかなさを表しているなんて言えば、哲学的視点っぽい。
 あるいは、SNS。意見発信の場であったり、議論の場であったり、マーケティングの場であったりする。時には誹謗中傷によって、チープな憂さ晴らしとして使われたりする。さらにはSNSによって、コミュニケーションの取り方が変わり、グローバル化したりして、それぞれの文化のありようまで変わってくる。単に承認欲求満たすだけに使われているわけではない。

 最近、注目しているのは、雲である。雲を写真に撮るとわかると思う。どうしてもあの壮大さには美しいと思わざるを得ない。単純に綺麗なだけではない。形を変え、雨を降らす。薄暗い鼠色から紅に金を混ぜた強烈な色彩にまで変化する。一つの概念の中で、人工物には不可能なくらい、表情を変えてしまうのだ。あまりに芸術的すぎる。
 さらに雲は想像力の源だ。子供じゃなくても、雲を見れば、何か動物や食べ物を想像したりするだろう。さらに雲はたくさんの物語を生み出してきた。ジャックの豆の木から天空の城ラピュタまで。
 そしてもちろんのことだが、雲にも科学的側面が存在する。雲はいかにしてできるのか。雲の微物理過程だ。ただ残念ながら、自分にはそこの視点が欠けている。よく知らないのだ。こんなに愛すべき雲に対して、大事な要素が欠けているのだ。だからこそ、今、雲の研究がしたいと考えている。
 
 とにかく私は多義性のあるものが好きなのだ。というか、物事に対して、多義を求めてしまう。人はある事象、あるもの、ある人を見るとき、一つの方向から見てしまう。あるいは、ただ単に私はそこから抜け出したいのかもしれない。
 


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