平日の真昼間、高級ホテルのプールで人妻と。
夏が、始まろうとしていた。
梅雨が明けて8月が何日かすぎた頃。世間ではとっくに夏は始まっていたかもしれないけれど、私の中ではこれからだった。
今年はお祭りも花火大会もない。日焼けが嫌で海にも行かなくなった。大人数でBBQなんて煩わしい催しは避けたい。海外にも行けずアバンチュールもない。
氷のように冷たい空間からガラス越しに真っ青な空を見つめてばかりで、夏を感じるような出来事なんて何もなかったから。
◆
一人で過ごす時間が必要な私は、月に何度かホテルに泊まる。気が向いた日に、たった一人で、唐突に。
昼間は家にいれば一人だが、いつか誰かが帰ってきてしまうという焦燥感に襲われ、心の底からリラックスすることができないのだ。
全裸でソファに沈みこんでいると、
迎えのタクシーが到着したらしく、シルクを一枚だけ纏う。何にも縛られたくなくて下着をつける気になれなかった。きっと運転手は気付かない。10分後には水着になるのだから許してほしい。
すべすべの生地がずり落ちないように申し訳程度に紐が着いたワンピースを着て、夏の温度を一瞬だけ感じた後、よく冷やされたタクシーに乗り込んでホテルに向かった。
アーリーチェックインをして、バッグから水着だけを引っ張り出す。紐を指にかけてユラユラとビキニを揺らしながらスパに直行した。
平日の真昼間、スパのプールというのは非常に治安が良い。
週末の昼は小学生がクロールの練習をしているし、夜はカップルがいちゃついているし、運が悪いとインスタグラマーやパパ活女子にエンカウントする可能性がある。
しかし、平日の真昼間はわきまえた大人たちしか存在しない。私はこの時間にこの空間にいる彼らに対してある種の安心感を感じてしまう。
平日の真昼間にホテルのプールで泳いでいるような人間——いわば同じ階層、そしてその中でも同じ”種類”の人間なのだろうと。
窓の近くに腰掛け、東京を見下ろす。平日の昼間にオフィスビルを見下ろしても、在宅勤務がデフォルトになった今、とくに恍惚感は感じなかった。
どんなビルよりも高いところから差し込む日差しが、白く光ながらエメラルドグリーンの水面に降り注ぐのを見ていると、次第に心が穏やかになっていく。
所詮私たち人間は、太陽に見下されているのだ。人間なんて目糞鼻糞なのだろう。
時々、黒いキャップと黒いゴーグルをした男性が私の視線を遮るのだけど、特に不快感はない。彼は恐ろしく静かにゆっくりとクロールをしているだけだから。
そこら辺の中年男性と違ってやはりわきまえているのだ。身体は鍛えられていて清潔感がある。たぶん子供が二人くらいいて普段はしっかり父親をやっているはずだ。
週末は妻をスパにやり、子供を連れてここでクロールの練習をしているのかもしれない。でもきっと配偶者以外にもいつでも身体を重ねることができる相手がいる。彼は全てを持っている。そんな感じがした。
私がバスローブを脱いだ瞬間、ちょうど泳ぎをやめた彼とバッチリ目があってしまったけれど、やはりそこら辺の中年男性にありがちなネットリとした視線とは違い、不快感はないのだった。
私が視線を逸らさず微笑み返しさえすれば、きっと驚くほどスムーズに何かが始まってしまうような気がしたが、私は反射的に視線を逸らした。
彼がプールから出るのを見計らい、今度は私がプールを使わせていただくことにした。
冷たくもなく、熱くもない、丁度良い温度の中に身を委ね、広いプールを独り占めする。プカプカと浮かび続けていると、悩みなんて何もないような気がしてきた。
他人との間に作った分厚い壁、自分を守るためのシールド、知らない間に着ていた鎧、得体の知れないプレッシャー、溜め込んだモヤモヤ、そんなものが全て水に溶けていって体が軽くなっていく。
人生に不満はない。けれど満足はしていない。でも今は、人生のことなんてどうでもいいや。そんな風に思えた。
スッキリしたはずなのにプールから出ると重力を感じてアンニュイな気分になる。濡れた体のままソファに横たわると、プールを挟んで丁度対岸に座っている女性と目があった。
その瞬間、少しだけ時間が止まったような気がした。
私たちの間には大きなプールが横たわっているのに、私は明らかにその女性の瞳に引き寄せられ、吸い込まれていった。
あまりにも、しっとりと見つめてくるのだ。
私はこの時はじめて視線にも湿度というものがあるのだということに気付いた。
その女性は私と同じ真っ黒なビキニを着ていて、一度も太陽に当たったことがないような白い肌をしていた。私よりもふくよかな体型をしていたが、だらしなさは一切なく、柔らかそうで豊かという表現がしっくりくる。
私より少し年上。結婚はしている。たぶん夫は経営者。彼女は全てを持っている。きっと彼女も配偶者以外にいつでも身体を重ねることができる相手がいる。でも恋はしていない。同じような場所に住んでいて同じような生活をしている。
人生に不満はない。けれど満足はしていない。
その女性の視線から同じ匂いを感じ取った。
彼女は視線を逸らさずに、こちらをしっとりと見つめたままゆっくりと口角を上げ、微笑んだ。
やはり、何かが始まるときの合図は微笑みからなのだろうか。
何かが始まってしまう予感を強烈に感じた私は、複雑な気持ちを抱えてプールを出た。冷水を浴びながら考える。さっきの視線は一体何。この気持ちは一体なんだろう。
シャワールームから出ると、先程の女性が風呂場で体を洗っていた。指先からゆっくりと腕をなぞり、泡を滑らせ、そしてこちらにしっとりと視線を注ぐ。
窓から太陽の光が差し込み、彼女の体に纏わりついた泡がキラキラと輝く。なんだかその光景があまりにも神秘的で見惚れてしまいそうになったものの、
他人の裸を凝視するのはいけないという常識を思い出し、私は逃げるようにその場を後にした。
タオルを巻いてドライヤーをしていると、あの女性が隣に座ってきた。鏡の中で一糸纏わぬ彼女と目が合う。
ドライヤーをしているとタオルが落ちてくるのだけど、なぜかもう別に、隠す必要がない気がしてきて、私も一糸纏わぬ姿になっていた。
私がドライヤーを切ると彼女も切り、静寂が広がる。
鏡の中で再び視線が重なり、明らかな何かを確信してしまった私は気づけば口を開いていた。
「部屋、来ますか……?」
彼女は微笑み、無言で頷いた。
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