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環境因子が私たちに与える普通

おはようございます。

今日は私が環境って大事だなよなぁと思うことをお話しします。


よく私はnoteで”普通”や”常識”というワードを扱います。

これは、私自身そのような言葉に縛られたくなくいのと、私にとって普通という概念が曖昧なものだからです。

普通や常識に縛られた生き方はしたくない。そんな曖昧なものを自分の信念として生きるのは違う気がする。

そんな思いで生きているので、思考回路の中に”普通””常識”のようなワードが出てくるんです。

今回のnoteもその普通についてのお話しを私の生い立ちとともにまず描いてみたいと思います。

私は徳島県の超田舎で育ちました。小学生の頃は、1学年1クラス。人数も20人程度。隣の街の小学校に至っては、10人もいなかったと思います。

それくらいの田舎で育ちましので私の中での「クラス」の価値観は、1学年=1クラス=20人程度というものでした。これが学校に対する普通です。

それが、中学校の時にぶち壊れます。中学進学とともに小学校の頃の友達とは少し離れ、町単位の学校から市単位の学校にいくことになりました。徳島市というところでした。

(都会に比べれば徳島市もだいぶ田舎ですが、当時の私にとっては大都会でした笑)

その徳島市内の中学校ではなんと1学年=6クラス。35人/クラスというような巨大な学校でした。1学年200人弱です。

今まで20人くらいのコミュニティが最高人数の私は、巨大学校の前で圧倒します。

「こんなに同世代の人が集まる場所があるのか、、、」

というのが第一印象でした。そりゃそうですよね。私の中でのその時の「普通」は1学年20人程度というものでした。200人なんて何か数え間違いじゃない?と思っていたほどです。

(実際学校通い始めて1週間くらい毎日クラスの人数数えてました笑)

これが普通という概念が簡単に壊された出来事でした。

ここまでが私の生い立ちの話。

この生い立ちの中で、普通は「周りの環境が作っているだけだった」ということが言いたかったんです。

1学年20人程度だった町から1学年200人弱の市へ。

私の普通はその町が作っていただけのもので、場所(環境)が変われば通用しないことを知りました。

それだけ普通という概念が個々人にとっては曖昧なものなのだということを実感できたエピソードでした。

よく遊ぶ「真面目」な友達が多いのであれば「真面目」に学校生活を送ることが普通。「ふざけあう」子が多いのであれば「ふざけて笑いあう」ことをするのがその子供達にとっての普通。

「会社で働いている」友達や知り合いが多いのであれば「会社で働く」のが普通。「海外で暮らしている」知り合いが多いのであれば、「海外で暮らす」ことを目標にするのが普通。

このように、周りの環境によって普通という概念が形作られているんです。しかしそれは環境が変わると普通の概念が変わってしまうということ。

”普通”ってそれだけ曖昧で変化しやすい概念なんです。

そんな普通に縛られて、「これが普通の生活なんだ」と言い聞かせて、生きづらい人生を送るのはもったいない。

普通に従う必要なんてないと思うんです。ありのままのあなたで、周りの普通なんていずれ変わります。

生きづらさを抱えている人は、環境を変えるだけで生きやすさに変わるかもしれません・

(精神疾患の生きづらさもこれに似ている気がします。その人を支える環境を整えるだけでその人は生きやすくなると思っています。そのための社会資源の支援だと思っていますが、そこは専門分野なので医療関係のわかる人にだけ。笑)

ぜひ、普通なんていう曖昧な概念に囚われずに自由に生きてみてください。環境を変えることがミソです。

本日も読んでくださりありがとうございました。

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