3姉妹

フツウの女の子、をやめたくて。 #私の子ども時代


はじめまして!PIECES magazineリレー第1回目、3人目のバトンを受け取りました。PIECESインターンの若林碧子(わかばやし みこ)と申します。
リレー第1周目のテーマは #私の子ども時代 ということで、PIECESのインターンとして活動している私の「子ども時代」について私事ながら話してみたいと思います。

私はPIECESでは旧コミュニティユースワーカー育成プログラム4期を修了後、インターンとして広報ファンドレイジングやマーケティング、CforC事業などに関わっています。

「私の子ども時代」というテーマは、自分の歴史を掘っていく面白い作業だとこのnoteを書きながら思っています。
どんな場所で育ったか、どんな空気を吸って生きてきたか、それはそのまま私のアイデンティティになる。それにパンチがあるほど、その人生が面白くなる可能性を持っている。

きっと私の子ども時代は、そんなにパンチがない。自分をいわゆる「フツウの女の子」だと勘違いしていた私は、どんなことを普通だと思って生きて来たのか、ちょっと振り返ってみようと思います。

おませさんだった子ども時代

私は宮城県は緑豊かな杜の都、仙台市で生まれ育ちました。

両親は学校の先生で、父は高校、母は小学校の教員です。
私は3つ上の姉と、6つ下の妹、10個下の弟がいる4人姉弟の次女として6人家族の家で育ちました。

私はママゴト遊び、本を読むことが大好きな典型的な「女の子らしい女の子」でした。
好きな色はオレンジ、大親友はぽぽちゃんで、シルバニアファミリーは今でも大好きな宝物です。外遊びは得意じゃなくて、いつも外遊びとなると砂場で綺麗な真ん丸の泥団子作りに勤しむか、みんなでセーラームーンごっこをしていました。(私はいつでもセーラージュピター)

写真は、ビニール袋で洋服を作ってドヤ顔の私。
よくぽぽちゃんにも、妹にも着せていました…

おじいちゃんおばあちゃんっ子な私は、いつも祖父母の家に行ってはこういう袋やリボンを集めてはせっせとお洋服作りに勤しんでいました。

完全なるインドア派

外で遊ぶのが得意ではなかったことは、後々「運動嫌い」、転じて極度の「運動苦手意識」に災いするのですが、もともと私は身体があまり強い女の子ではありませんでした。生まれてすぐから物心付くまで何度も入院して、とっても手のかかる子どもだったと思います。
(本当に足が遅そうな写真を発見しました。w腕を振ってくれ。)

インドアを決定づけたのは運動音痴、病気がちということだけではなく、読書が大好きだったことにもあります。私は小学生の頃のサンタさんからのクリスマスプレゼントは本、というくらい文学少女でもありました。岡田淳さんの本が大好きで、当時暗記できるくらい読み込んでいたのを覚えています。

今年1月に参列した成人式では、小学時代の担任とたまたま会って「文学部か。みこは文学少女だったもんな〜」と言われたのでそんな記憶を思い出しました。

人一倍「おねえちゃん」気質

妹が生まれ、お姉ちゃんになった。私は6歳。

私には妹と弟がいるのですが、人一倍「おねえちゃん気質」だったように思います。

元々身体がちょっと弱くて、心臓系の病気で入院していた時にちょうど妹が生まれました。誰よりもお母さんにそばにいてほしいという想いはあったものの、
「赤ちゃん産まれるんだから我慢する。おねえちゃんになるんだから。」
と強がってお母さんに会えない1ヶ月を過ごしていたのを今でも覚えています。

産まれる前からお姉ちゃんマインドばっちりだった私は、妹そしてその4年後に生まれた弟を溺愛します。

特に弟が生まれた時はもう物心付いてからだったので、今でも産声を鮮明に思い出すことができるくらい。

誰に頼まれたわけでもなく、妹には手作りのひらがな練習ノートで英才教育を実施。弟のお世話はいつでも率先してやりました。
 オムツ替えも離乳食もお手のもんです。

子どもが好き、という変わらない関心はこの二人の可愛い天使たちの存在から来ているのだと思います。

私の天使たち。まじでかわいい。

反骨精神強めのちょいギャルになった

女の子らしいことが好きで、身体がちょっと弱くて、妹弟のお世話が大好きな女の子。そう聞くととっても「か弱くておしとやか」な子どもをイメージされるかもしれませんが、今の私を知っている方は「…?!」となるでしょう。そうです、決してそうではありませんでした。

小学校の時はよく男の子と喧嘩をしていたし、クラスを牛耳る女の子でもありました。(こわい…)
小学6年生くらいの時からメイクを覚え始め、中学校では短めのスカートにバレるかバレないか微妙なラインを攻めるメイクをして学校に行っていました。ちょいギャルですね。

教員というとてもまともな両親の元で育って、姉は超優秀。学校では「若林先生の娘さん」というファーストインプレッション。
ピグマリオン効果ももちろんありました。私は「親に恥をかかせられない」と勝手に自分で自分の尻を叩いて来ていたのだと思います。親は何も言っていないのに。誠に勝手に。

でもそれがどうしても嫌になって、両親教員という安心のレールの元、いっちばん端っこまで行けるとこまで行きました。成績も落ちるとこまで落ちた。EXILEが大好きでした。たくさん迷惑をかけたなあ。。

そんな私がいま、思うこと

おませさんだった少女時代、ちょいギャルになった中学時代。
「PIECESいち化粧が濃い」と言われた私は、「フツウ」な自分にコンプレックスを感じて生きて来ました。

みんなが原体験と語るような、とんでもない人との出会いとか、とんでもない家柄とか、とんでもない苦労話とか…
そんなもの、私の人生にはなかった。だから自分をフツウと思い込んで、奥行きのないペラッペラの人間だと思っていました。大学一年生の時にNPOの界隈に足を踏み入れたのも、本音はフツウな自分を変えたかったからでした。

いま関わっている子どもたちを見て、みんな何かしら自分の人生や容姿、成績や人間関係にコンプレックスを抱いていて、フツウになりたいと願っているように見える時があります。

でも普通なんかなくって、普通か普通じゃないかなんて、決めるのはきっと自分自身。なので私は、誰もがありのままで愛すべき存在なんだってことを伝えたい、そう願ってこのPIECESで活動しています。


ちょっと長くなってしまいましたが、ここまで。


今回の担当:若林碧子(わかばやし みこ)

早稲田大学文学部教育学専修3年。宮城県仙台市出身。コミュニティユースワーカー第4期生として活動。現在はインターン。国内外問わず教育福祉に関心があり、途上国の教育支援のNPO法人でも活動中。大学では教育学を専修し、教育と福祉の両軸で社会を善くする方法を実践を通して学ぶ。

Twitter: @mikooo_jp https://twitter.com/mikooo____jp
note: https://note.mu/mikooo



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