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花には水を

自然の中にいておかしいかもしれないけど自分は蝶類が苦手、昆虫全般そうだけど蝶類は鱗粉とかあるし。昔父親が園芸好きで狭い家の敷地内に何十鉢、いやもっと鉢植えを置いていて様々な植物を育てていた。季節ごとに咲く花々、咲かないものもあるけどツツジの頃になるとたくさんの鉢にツツジが咲く。何で園芸なんだろう、と思っていたけどね。父親は病弱で事故もありよく入院した。事故の頃は知らないけど病気で入院はよくしていて、十ニ時間以上の手術も経験した。父親も私も。その後入院しているときは水やりを頼まれていたのだけど嫌だった。蝶類いるし。それに父親は非常に丹念にやるという事で毎日一時間以上は時間をかけている。頼まれたオレはよくて十五分、単純な労働としか捉えられていなかった。そういうのもある。そしていくらかの植物は枯らしてしまった。そういう事もあった。

大人になり大学時代のバイトの友人とずっとバカみたいに酒を飲みまくっていた。もうその時点で普通の人が一生で飲む量の何倍も飲んでたから体も壊す。その友達は大手カーディーラーを退社し大規模な園芸店で働き始めた。彼が言うには一度やってみたかった職だという。ああそういえば飲み屋でクリスマスプレゼントと言われ貰った立派な鉢植えの私の分まで託したこともあったっけ。また花か。今では彼はもう一つのやってみたかった職に就いていて未だに皆で温泉に行ったりしている。皆って三人だけどね。私はもう飲めないけど飲み会にも必ず誘ってくれる。そしていつかふと思った、花を植物を愛でる心があるんだな。それはもう随分前の事だけど確かにそんな事を思った。

ふとバジルのポットを買った。スーパーの野菜売り場のおつとめ品の中に簡易のビニール製ポットに入ってる苗があった。おつとめ品とは売り場に並んで日が経ち賞味期限が近づいて値引きをした食品の意味、見切り品といったりもする。半額。百円もしない。しおれかけているからだろうか、それとも季節が終わりそうだからか、秋だからどっちもかなと思い軽く買った。一度目は家族に託したが枯らせてしまう。まあそんなものだとも思いつつも生き物の損失感に失望する。生き物を軽々しく扱った事に対してかな。なんだろう。程なくしてまた同じ場所でバジルのポットに出会う。また買う。しかし今度は自分がもう少し積極的に関与しなければと思った。どういう行方でどうなるのか観察くらいはしようと。幸い家族がポットのビニール鉢から家にある鉢に植え替えてくれた。しかしそのイベントだけで飽きるようだ。だから私が毎日水をやる。水をやると観察するのでなかなかいい。別に昨日と今日がどう違うって事ではないんだけど水をやり葉を見る。それだけ。そしてそれはいい時間。これくらいのいい時間だとは思わなかったな。ふとしたことだけど父親や友人の植物に対する気持ちも少し、少しだけ分かるような気がした。そしてずっと過ごしていた中の好きな曲にあるこんな歌詞を思い出す。

花に水あげるように
あなたにも私にも
スプーンひとさじくらいの
愛がなけりゃね

そうだ、愛かどうかは分からないけど少しくらいの気持ちがないとね。

冬になるとバジルは枯れてしまう。冬を越せないらしい。だから最後の収穫はバッサリと切った。しかしそこでふと思った、雑草みたいに生命力強そうだけどな。そうだ父親の花を枯らした時もそうだった。枯らしてしまったが実は完全には枯れていなかった。水やりをしていたら生えてきた。いや生きていた。だからじゃないけどバジルにも変わらず水をやる。いや変わらずじゃないね。気温の低い日とか凍りそうな時はあまりやらない方がいいのかなって思ったりして。枯れてるのかもしれないけど春までは継続するつもり。様子を見ながら水をやる。それが一つの務め。そんなことを思ったりする新年のある日。

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