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webページを分けるべきか -ページネーションの憂鬱-

私は基本的に作業はPCでしている。タブレットやスマホで書くこともあるが、多くは修正や加筆だけでスマホは外出時に音楽を聞くくらいだ。タブレットは色々使うが映画や海外ドラマを見るといったものを中心に使っている。とくに画像を扱う作業や情報収集はほぼPCしか使わない。頭が弱く情報弱者の私は、webサービスがあるものではあまりタブレットやスマホのネイティブアプリは使わない。それは過去"スマホのアプリすらインストールできない男"という記事に書いたような、アプリのインストールを嫌う傾向が理由というのもある。さらにアプリでは通知等が気になるし、いや、通知をオフにすればいいのだろうが、一方では情報を知るという知の誘惑に負け時間を失う事が怖い。もう老化が劇しく時間を有効に使えない。たからこそ怖がっている。そういうこともあり、まとまった時間を作れたときにPCに向かうということにしている。それが出来ずずるずるとPCを使っていることもあるが、基本は机に座ってということになるので、あまりに長時間はそれができない。

さて、もう一つの私の問題は、新聞を取ってないし、テレビも見ないということかもしれない。情報に疎いのだ。歩きながらスマホで時事のラジオ等を聞いたりするが、基本的な情報収集はやはりwebだ。私の場合はタブレットやスマホのニュースアプリも見ることもあるが、今はほぼない。しっくりくるニュースアプリがないのだ。以前は使い慣れたアプリがあって多少使っていたが、そのアプリのサービスが終了し、気に入る代替を見つけられず今ではたまにしか使わない。天気のアプリ等は使っているが時事の情報収集はもっぱらPCで、Twitterのツイートや、それから他のサイトへの誘導という感じになる。そこでよく出くわすの疑問がある。それは記事のページ分割のことだ。それが必要なのかと思ってしまう。煩わしい。一つの記事を数ページに分けて掲載する意味が分からない。それに読み込みの時間も面倒だ。このページネーションのおかげで一つの記事として完結しているはずの記事が煩わしくなっていてゆっくり読めない。それを考えてみた。

ページ分割のことを考えると最初に思うのは、誰でも分かることだろうが、ページビューを稼ぐという意味だろう。私はそれを醜悪と思うが、それを正当化する人は読み込みの問題を指摘したりする。しかしニュース程度のテキストを三つも五つも分割する必要はあるのだろうか。それを読み込む時間よりもリッチな広告コンテンツや、何度もウェブページをレンダリングする時間の方が無駄だ。これだけ通信環境の帯域やスピードが大きくなった時代に広告コンテンツは全ページに貼るが、数キロバイトのテキストファイルは分割しなくてはならないというのは利便性という意味空は理解できない。もちろんそれが世の中の、経済的なしくみだというのもあるのだろう、それが嫌でも読む人は読む、以上。というように。しかしそれは世界を狭めてしまわないか。今は少なくともゆっくりと読者を失ってしまうのではないか。それならば制限を外す有料にすることや一歩踏み出してページネーションを止めてみてもいいと思うがどうたろう。また、もう一つの正当化は読みにくいという人がいるということだろう。大量のテキストを読むのが苦手という人だ。長文だと読みにくい、だから分割する。しかし私にはその差異を明確に感じることはできない。見た瞬間の印象だろうか。字が詰まっていると苦しいとかかなと思ったりもする。一時ケータイ小説というものが流行って段落や行間に独特の様式があった。読んだことはないが一見ではそう感じたことがある。また、最近は知らないが有名人の個人ブログとかにも意味不明の行間が存在し、それは携帯端末で閲覧するとこが前提だからという話になっていた。しかしケータイ端末で利用しようがPCで利用しようがCSSでレンダリングを切り替えて対応しているのだから、見づらいのならそちらで対応すればよく、意味もなく行間を空ける必要はない。逆に行間ばかりで読みにくいという人もいるだろう。読みにくいというのなら巻物と本を考えてみればいいと思う。長い文章だと長い巻物になり、途中がどこか分からなくなる、だからページで分割された本があるのだろう。だが、ニュース程度の長さにそれが必要か、また長文の場合でも位置を記憶できればそれはもう巻物でもよくなる。そういうブックリーダーもあるだろうしJavaScript等でそういう実装もできるだろう。だがそれをするとレンダリング時間や端末側の差が生じてしまう。それならば長文の書籍等はページネーションに対応するのもいいだろう、しかし数千文字程度の文章の場合、ページ分割などしなくとも十分読むに堪える文章だと思う。この考えはおかしなものなのか、いやそうじゃないサイトもあるのだからそちらに行けばいいということか。しかし疑問は疑問として持っている。

蛇足になるが最近は"続きを読む"というものもあり、それも同様に煩わしいものだ。ああいうものはどうにかできないものなのだろうか。


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