人生で1番の恋

大学生の頃、通っていた大学のキャンパスは今より管理がゆるく、特にサークル棟は無法地帯に近かった。地下にはいくつかの多目的スペースがあって、楽器の練習をしたり舞台をやったりとサークルごとに自由に使っていたのだ。

所属していたサークルも季節ごとに活動発表会をしては、そこに酒類を持ち込んで飲み会をやっていた。当然酔っ払った学生は小さな練習場を抜け出して夜のキャンパスのほうぼうで座り込み、語ったり歌ったり、隠れてキスしたりしていた。急に走り出して前歯を折った男の子もいた。

練習場の裏口には地上へ続く階段があって、そこはなんとなく喫煙スペースになっていた。当時憧れていた青木さんという先輩はよくこの階段に腰掛け、黙ってアメリカンスピリットというタバコを吸っていたので、わたしはよく数段下に腰掛け、彼のコンバースのひもをほどいて遊んだ。まっすぐな黒髪なのに、目の色素が薄くて、いつも眩しそうにしていた。北海道出身の無口な理系男子だった。

青木さんには長く付き合っている彼女がいた。
年上で世話好きの麻生久美子に似たかわいい人だそうで、保育士をしていると聞いた。わたしはどうしても彼を彼女から略奪したいと思ったのである。

青木さんは一見とっつきづらい人だったけどメールがまめだった。折を見て青木さんの好きな場所に行きたいとお願いすると、品川の原美術館に連れて行ってくれた。展示の内容よりも天気が良く、御殿山の桜が綺麗だったことをよく覚えている。

次のデートは新宿で映画を見た。青木さんの好きなガスヴァンサントだったと思う。暗い遊歩道でキスをした時、夜風に当たった髪が硬くて冷たかった。

それから月に一度デートをするようになった。
恵比寿、清澄白河、六本木。
わたしにとってお洒落で、大人で、初めての街ばかりだった。

けれども、青木さんは彼女と別れなかったのだ。

ある日根津から歩いて谷中までくると西日に照らされ桜がおそろしいくらい綺麗だった。一年前ほど浮かれていなかったわたしは、
「彼女さんはどうしたんですか。」
と意を決して聞いてみた。青木さんは西日を眩しそうにしながらしばらく考え、
「UMIちゃんは詰めが甘いんだよ。」
と言った。

彼の真意は定かでないが、わたしは意味を尋ねられなかった。青木さんの間合いは沈黙や声に出せない疑問で満ちていて、質問をぶつけることはとても不躾だと感じたのだ。今思えばまさしく詰め寄ることができなかったのだ。

また少しして、自由が丘のスターバックスコーヒーで青木さんは珍しく饒舌だった。外の席に座って往来を眺めながらわたしは彼のサンダル履きの足先ばかり見ていた。彼はIT系の大手企業に内定していて、内定者同士で集まって飲み会をした際、席が隣になった人と仲良くなったという話だった。その人は料理を取り分け、無口な青木さんから話を引き出し、シャツにこぼれた酒を拭いてくれたそうで、青木さんはたじろぎながらもその人に好意を持ったことが想像できた。

わたしは今度はつまらない気持ちで
「彼女さんとどうするんですか?」
と聞いてみた。すると青木さんはちょっと考えて
「別れたよ。」
と言った。

その後わたしは院受験の勉強に忙しくなり、遊んでもいられずあまり会わなくなってしまった。大学院に合格すると青木さんはオアシスの二枚組のアルバムをくれた。

しばらく宝物のように聴いたが、もう会うのはやめた。その後2年くらいは誕生日にメールが来たがわたしは返事をしなかった。

#エッセイ
#恋愛



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