春が来ることへの不安について


「欲状態保存症候群」「欲現状維持症候群」とでもいうのだろうか、2月の中旬過ぎから4月にかけて、「変化」を著しく恐れる状態が続いている。その状態についての分析と、そこから思いついたことを綴る。

「安心の冬」から「焦燥の春」への変化

上記症状が強く出たのは2月中旬。まだ冬だと思っているのに、突然暖かくなったりすることに起因するのだと思う。
冬にはある種の安心感がある。寒さに身を任せ、安心して縮こまっていられる。それは、雨の日に安心して家の中に閉じこもっていられるような安心感である。
しかしながら、突然やってくる春の陽気は、外への強制力を伴って縮こまる私に襲いかかってくる。

季節が否応なく変化し、人間関係などの周囲の環境が物理的に変化することに適応できず、オロオロと心が浮つく。浮つくと、心があるべき所におさまらず、どうしても落ち着かない。否応なく周囲が変わっていく中で、変わらないものに必死にしがみつく。例年の私であれば、変化を楽しみ、心がいい意味で浮き足立つのだが、今年はなかなかそうもいかない。

今年の春は、私にとって激烈不良な体調となり初めて迎える春である。
症状が出たのは昨年の夏頃で、そこから冬に向かっていくところまでは自分の気分・体調と季節感が合致していたように思える。自分にとっては厳冬期であったが、冬という安心して縮こまれる環境に身を置けるから割と心は落ち着いていた。
しかし、突然春がやってきたことで自分が閉じこもっていたシールドが突如として破壊され、暖かくて明るい日差しが「外へ出よ」「動き出せ」と誘ってくる。
その眩しく暖かい強制力は、今の私にとって苦痛をもたらすものでしかないのである

例年は、そういった強制力に対し適応が可能であった。外へ外へと誘われればすぐに外へ行けた。ところが今は、外へ行きたいと思っても、その気持ちに身体が付いてこない。どんどん、外界と「私」との乖離が進む。精神由来の体調不良ではないはずなのに、この状況によって心が塞ぎ込んでしまう。

行きたいのに行けない。周囲は先を行くのに私はその波に乗ることができない。置いてけぼりを食らったような心持ちである。家族で出かける予定だったのに、体調を崩しただとか不機嫌になったとかで自分だけが1人家で留守番している時のような気持ちである。そしてその先にあるのは途方もない焦燥感である。


“「遠回り」「回り道」しないと見えないものがある”


これは私が大切に大切にしまい込んでいる言葉で、今までの私はことあるごとにこの言葉に救われてきた。これと関連した物理学者・寺田寅彦の言葉と出会った時などは涙を流して感激したほどである。

いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。

寺田寅彦「科学者とあたま」



だが、救われたのは、この類の言葉が「回り道した結果人より遅れた自分」を正当化できる言葉だからである。
私は何事においても他人より嚥下能力が悪く、たいていのことは他人よりも時間がかかる。遅い自分を否定しながら生きた期間のほうが長い。他人より遅い性質のせいで焦燥感を覚え、焦燥感を覚えるような自分に腹が立つ、ということの繰り返しであった。

こういった言葉は、過去の自分を慰めるのには役に立つ。しかし渦中にある今の自分を慰めることはできない。無責任千万な言葉に聞こえるのである。

私は、こういった言葉を最近まで人生訓として携えてきたが、存外役に立たないものだと今痛感している。過ぎないと重さをもたない類の言葉なのだなと思う。未来の自分は、過ぎた自分のありようをこの類の言葉と共に振り返って、救われるのかもしれないが。

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