「自分史」とは、自己物語化である

 〈2024.09.04〉
 「自分」の「(歴)史」という名の通り、「自分史」とは自分の人生(歴史)を時系列で振り返り、自伝的に物語化することだと思う。もう少し私に馴染みやすく捉え直すなら、「自分を主人公にして、3巻の漫画を作るなら、どんな構成にするか?」くらいの問いとして考えてみても良いだろう。ここで一つ重要なのは、「3巻」という制約である。私たちは、自分の人生の中から、この制約の中に収まるように、特筆すべき出来事を選び取って、「自分史」という物語をつくり上げる。

 「3巻」という制約がある以上、当然のことながら、私が経験してきた出来事のほとんど全てが、「自分史」からは捨象されることになる。それは、名もなき人々の行動や思いが、歴史の教科書に残らないのとちょうど同じことだ。さらに、「自分史」を読む面接官たちは、舌の肥えた読者であって、ありがちな成長譚やほのぼのとした日常譚を求めてはいないらしい。読者が求めているのは、「少ない描写でもキャラ立ちが良くて、完結後には外伝を読んでさらにキャラについて知りたくなるような成長譚」だろう。要は、読者(面接官)に面白いと思って貰える漫画(自分史)をつくらねばならないのだ。なお、ここでいう面白さとは、ストーリーの面白さ以上に、「キャラ立ちの良さ」から評価されるものだろう。

 私が漫画を読む時、キャラ立ちの良さを評価する上では、特に2つのポイントを意識しているように思う。一つは、キャラクターの今の信念を表すキャッチ―な台詞ないし行動だ。そしてもう一つは、その信念を裏付けるような、わかりやすい過去回想エピソードである。過去回想というカタルシスは非常に強力で、そのキャラクターがどのように形成されたのかということへの端的な理解を、私たちに提供する。そこにキャラクターの信念を写したような台詞が乗ると、私たちは実際には会ったこともないキャラクターを推すことができるようになる。漫画の中にそんなシーンは無いにも関わらず、このキャラだったらこの場面でこんな行動をするだろうと、想像を膨らませることさえできてしまう。「自分史」においてキャラ立ちを良くする上でも、この二つのポイントを抑えることは重要だろう。

 だが、「自分史」をつくることと、漫画のキャラクターをつくることとの間には、一つの重大な違いがある。それは、漫画のキャラクターは架空の人物であるのに対して、「自分史」における「自分」は、実在する人物であり、なお且つ作者自身である、という点だ。架空の人物であれば、3巻という制約の中に描かれたものだけがその人物の全てであり、「描かれていない部分」については、およそ捨象して理解することができる。だが、実在する人物を描くとき、「描かれていない部分」を隠しきることはできない。明らかに「自分」は、「自分史」の上に残らなかった出来事や、些細な経験や、無意識のなかでも形成されている。したがって、たった3巻の制約の中では、「自分」を描き切ることはできないだろう。つまり、「自分史」という物語は、「自分」という雄大な実在の、ほんの一部分を切り出してつくり上げたに過ぎない、「実像のような虚像」についての自伝なのである。

 就活という現実に話を戻そう。この「実像のような虚像」という本質は、「自分史」に限らず、就職活動の様々な場面に強く絡んでいる。ESにおける文字数、面接の制限時間、こうした制約の中で、「自分」の全てを伝え切ることはできず、「自分」のごくごく一面を見せるに留まってしまう。
 このことを踏まえて、とりわけ就活生が注意すべき点が、二つあると思う。
 一つ目は、面接官は、いま見せられているものが、目の前の就活生のほんの一部を切り取ったものに過ぎないと、気が付いている、ということだ。面接官は決して、いま目の前の就活生が話している内容が、目の前の「人物」の全てだと思ってはいない。(というより、もしも「目の前の人物の全て」だと思って聞いている面接官がいるならば、人の話の聞き手として未熟だと思うし、そんな面接官のいる企業は、こっちから願い下げだ!くらいに思う方が良いと思う。)むしろ面接官は、就活の現場をプレゼンの場として見ていて、さまざまな制約の中で、就活生自身が、自分をいかに商品化して、自分をどのように切り取って、「実像のような虚像」をつくり込んできているか、を見ている。確かに目の前の「実像のような虚像」は、つくり上げられた「虚像」に過ぎないのだが、同時に「実像のような」ものであるために、「完全な虚像(真っ白な噓)」ではない。この前提に期待して、面接官は「虚像」を読み解くのだと思う。また「実像のような虚像」の中に、「描かれていない部分」も、採用後には「意外性」として昇華できる場合がほとんどである。人間関係は、案外そのような「意外性」というギャップには、耐性があるものだと思う。

 二つ目の注意すべき点は、「自分史」で描いた「自分」は、「本当の自分」の大部分などではなく、むしろごくごく一部に過ぎないということを、就活生が自覚する必要がある、ということだ。「自分史」に描き出した「自分」は、本当にごく一部である。きっと「本当の自分」は、もっとくだらない、取るに足りない、ありきたりな、何気ない要素たちからも、構成されている。自分にとって、非常にセンセーショナルかに思えた経験を、センセーショナルにしている何かがあるはずだ。自分が成長できたと思う経験を、「成長できた経験」たらしめている何かがあるはずだ。それは、もっと無意識の領域に潜む要素であって意識化不可能なものなのかもしれないし、単に忘れている経験があるのかもしれないし、他にも色々考えられる。だが一つ言えることは、就活の自己分析は、どこまでいっても就活の自己分析に過ぎない。「自己」を知るというのは、本来はもっと複雑で果てしないものであり、その複雑さと果てしなさ故に、「就活の」という文脈を設定して、自己分析を仮にでも遂行できるようにしているだけだ。「自伝」というのは、決して「自分を伝え切る」ものではなく、「自分を伝え切ることなんてまずできないけど、とりあえずやってみたよ」くらいのものである。決して、「就活の自己分析」や「自伝」という営みを否定したいわけではなく、むしろそれらには大きな価値が含まれていると、私は信じている。ただ、「就活の自己分析」や「自伝」は、あくまでも「自分」という複雑な存在を、仮に「実像のような虚像」という形に留めたものに過ぎないということに、自覚的でありたいと願っているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?