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羊の瞞し 第5章 CHAOTICな羊(4)

前話目次

(4)父の過去


 松本宗佑の調律師としてのキャリアは、高校卒業後に国内最古の手造りメーカーである「SCHWECHTEN」へ研修生として入社したことから始まった。そう、宗佑は手造りピアノの製造現場で研鑽を積んだ経歴を持つという、当時でも数少ない(現在ではほぼいないであろう)タイプの調律師なのだ。あらゆる修理に長けているのも、ピアノ製造の全工程を知り尽くしているからに他ならない。
 当時、国内では戦後最大の好景気を背景に、ピアノ需要が爆発的に増えた時代に差し掛かろうとしていた。時代の要望に応え、大手メーカーがオートメーション化によるピアノの大量生産に世界で初めて成功し、安価で良質なピアノが続々と発売され始めたのだ。地道な手作業で高価なピアノを製造していたSCHWECHTENは、完全に時代に取り残されたと言えよう。
 やがて、販売台数を激増させている大手メーカーとは裏腹に、SCHWECHTENの経営は不景気に傾き、規模を縮小せざるを得なくなった。それでも、SCHWECHTENの確かな品質は一部の愛好家や専門家に高い評価を得ており、積極的に販売していた楽器店もあった。その一つが愛楽堂だ。

 一方で、大手メーカーの攻勢はますます激化した。
 全国網での特約店制度や教室の運営など、展開力も卓越しており、小規模のメーカーは太刀打ち出来ず、次々と閉鎖に追い込まれた。SCHWECHTENもその一つだ。抱え込んだ負債は回収不可能な額にまで到達し、ついには惜しまれつつも倒産した。
 最後まで工場に残り、SCHWECHTENピアノを作り続けた数名の職人達は、新たな人生を模索した。倒産を機に、引退した者もいた。また、辛うじて生き残ってる他の小規模メーカーに、再就職した者もいた。独立開業した者も、楽器店に入社した者もいた。業界から身を引き、完全に転職した者もいた。しかし、大手メーカーや特約店への寝返りは、工場仲間から裏切り行為のように忌まれ、嫌われた。
 そんな中、宗佑はSCHWECHTENピアノに理解のあった愛楽堂に引き抜かれ、就職することになった。外回りの調律をしながら、技術部長として後進の指導にも当たり、修理も行うことになったのだ。

 だが、愛楽堂の経営も決して万端ではなかった。取扱うピアノは、ヨーロッパ製の輸入物をメインに、高価でも良品質のピアノに拘り、徹底した調整での行き届いた保守を心掛けていた会社だ。不具合が発生すると徹底的に修理し、ユーザーの要望に応えた音とタッチを作り上げることを第一義的に考えていた。
 こういったスタンスは、サービス業として至ってマトモなようでいて、経営的にはバカ正直なやり方だ。何より、時代にそぐわなくなっていたのだ。
 高度経済成長期の日本では、いつしかピアノは「高嶺の花」ではなくなっていたのだ。むしろ、所有してこそ中流階級の証のような象徴に成り下がっていた。なので、ピアノの所有に求められるものは、かつてのように音楽的な表現力や芸術的な品位、高級家財のイメージではない。この時代、ユーザーのピアノへの要望は、工業製品としての信頼性と耐久性、そして、優れたコスパへと変貌していた。
 大手メーカーの特約店は、こういった世の中の流れを上手く掴み、急成長を遂げた。興和楽器もその一つだ。コスパに優れたピアノを大量に販売し、飛ぶように売れたのだ。
 実際に、興和楽器のような大きな特約店では、納調だけで月に40〜50台以上も予定が組めたそうだ。そして、購入者は、まるでそれが義務であるかのように音楽教室へ通い、「グレード」という名のランク付けにより競争心を煽られた。調律の必要性を説かれ、また上達の早い子は、折を見て、グランドピアノへの買換えを勧められた。
 普及率の激増は、アフターサービスも追いつかない状態になり、メンテナンスは音合わせだけで精一杯だった。調律師の絶対数が著しく不足しており、メーカーは短期間で最低限の技術を詰め込んだ調律師を大量に養成した。彼らは、現場では念入りな調整はもちろん、修理なんて出来る筈もなく、そもそも修理を学ぶ技術者さえ減少していったのだ。意欲や向上心の問題ではなく、時間が確保出来なかったのだ。
 愛楽堂も、この過渡期をどう乗り切るかという困難な岐路に直面していた。今までの真っ当なスタイルでは、もうやっていけないのだ。そんな折、KAYAMA社から話を持ち掛けられた。特約店契約を結ばないかと——。
 迷った挙句、経営陣は特約店になる決断を下した。そして、KAYAMAの看板を掲げ、マニュアルに沿った音楽教室も開講すると、それまでに培った伝統と誇りをあっけなく打ち砕くぐらい、労せずにピアノは売れ、教室は僅か数日で定員となり、調律も回り切れないほどに受注が溢れた。
 もっとも、愛楽堂に限った話ではなく、全国の大手メーカー特約店が、そんな感じの超絶なバブル状態だったのだ。

 愛楽堂の決定とは裏腹に、宗佑は特約店を毛嫌いしていた。大手メーカーによるピアノの量産化と特約店の販売能力の所為で、SCHWECHTENは倒産したのだ。
 一方で、宗佑は結婚したばかりでもあった。仲間を裏切るような罪悪感に苛まれつつも、生活の安定を選択する必要を感じ、特約店勤務を続けるしかなかったのだ。せめてもの抵抗として、KAYAMA社の意向には従わず、メンテナンスの時間をタップリと取り、徹底した調整を行うスタンスを貫いた。必要な修理は行ったし、買換えを勧めることはしなかったのだ。
 そんな宗佑の頑な姿勢に、経営陣も手を焼いていたが、引き抜いてきた手前、放任するしかなかった。それだけではない。実際のところ、宗佑の仕事は勤勉で着実だった為、レスナーからの絶対的な支持も確立していたのだ。

 やがて、更に大きな転機が訪れた。なんと、同じエリアの特約店である興和楽器が、業務提携を打診してきたのだ。
 これには、メーカーが裏で手引きしていたという噂もあった。メーカーとしても、同じエリアで同じピアノを競合されてもメリットは少ないのだ。
 また、会社の規模は数倍違うとは言え、抱えている客層は対象的だった故に、互いに魅力的にも映ったのだろう。興和楽器は、これからピアノを始める若いファミリー層がメイン顧客だったが、愛楽堂は、ピアニストやレスナー、音楽家、愛好家などの専門家や上顧客が多かったのだ。つまり、補完し合う関係だった。
 両者の思惑に大きな齟齬はなく、話はトントン拍子にまとまった。表向きは合併と発表されたが、実質は興和楽器が愛楽堂を買収したのだ。愛楽堂の名前は完全に消え、旧店舗は興和楽器三原池店としてリスタートすることになったのだ。
 これにより、宗佑の立場も変わった。興和楽器には、宗佑よりキャリアも長く、KAYAMA本社の研修センターで研鑽を積んだ調律師が厚遇されていた。愛楽堂のトップ技術者だった宗佑も、年功序列の興和楽器に入ると三番手になったのだ。
 同じ特約店とは言え、方針も勤務体制も全く違う会社に吸収されたのだから、退社も検討した。しかし、プライベートでは、妻の美和が響を身籠った時期だったのだ。何事もリスクを嫌う宗佑は、結局残留を選択した。

 興和楽器での技術サービスは、愛楽堂とは全く異なり、薄利多売の典型のような形態だった。特に、外回り調律師の業務は厳しかった。
 外回り調律は、可能な限り一日四件、最低でも三件は組まなければならず、月に七十台の調律がノルマだった。一件当たりの滞在時間も六十分を目安に、最長でも九十分までと定められ、月に二台以上の販売も調律師のノルマになっていたのだ。
 宗佑のスタイルは、この特約店の方針に合うはずがない。全ての項目を全くクリア出来ず(と言うかしようともせず)、経営陣には事ある毎に叱責された。しかし、宗佑の技術力には、皆一目置いていた。技術部長でさえ、宗佑に勝てないことを認めていたのだ。それに、技術的な困難に直面すると、部下であれ上司であれ、皆宗佑に助けを求めたのだ。
 また、いつしかコンサートや発表会の調律も、演奏者から宗佑が指名されるようになり、会社としてもクビにしにくい存在で完全に持て余していたのだ。

 しかし、宗佑を苦境に追い込む調律師も存在した。宗佑より六つ歳下の彼は、愛楽堂を買収する前から、興和楽器の若手エース格の調律師ではあった。宗佑程の技量はないが、トーク力に優れ、清潔で嫌味のない身嗜みと天才的な人心掌握術により、瞬く間に人気調律師に成り上がったのだ。
 彼は、社長や取引先からの受けも良く、顧客からの信頼も厚く、先輩達を差し置いてメーカーの技術研修も優先的に受けさせて貰えたのだ。
 だからこそ、愛楽堂からやってきた宗佑の存在は、彼にとっては目の上のたんこぶだったのだ。ろくに営業成績を残さないクセに、皆から慕われ、尊敬を集め、何よりも有無を言わせぬ技量があったのだ。
 それだけでない。やがて、レスナーからの技術的な信頼も勝ち取り、彼の担当していたピアニスト達も宗佑の調律を望むようになった。彼がどう足掻こうと、技術では宗佑相手に勝ち目がなかったのだ。

 一方で、これからの調律師は、技術よりももっと人間力が求められスマートな接客対応が必要になるはず……彼はそう信じて疑わなかった。そのうち、宗佑は不要な人材になるはず……そう確信はしていたが、しかし、それまで待つつもりもなかった。元来からプライドが高く、野心的で功名心の旺盛な彼は、どうしても宗佑から仕事を奪い返したかったのだ。
 それからというものの、彼は社長やメーカーの担当者に取り入り、宗佑の成績の悪さを巧みに吹聴した。そして、さり気無く、自分の功績を擦り込み、宗佑がいなくなると、もっと会社は良くなるはずだと信じ込ませた。
 こういった処世術に関しては、天才的な才能があったのだ。それに、数字に残る実績だけを見ると、宗佑は悲惨な状況だったことも事実だ。ピアノ販売数は極端に少なく、調律実施台数もノルマに大きく及ばない。
 次第に、宗佑は社長に干されるようになった。顧客を失い、コンサートや発表会の仕事も回されなくなり、代わりにそれら全てが彼の元に戻されたのだ。

 そして、数年後、宗佑は妻の名義で住宅ローンが下りたのを機に興和楽器を退社し、独立開業を果たしたのだ。その裏には、会社に内緒でずっと交流を重ねてきた、SCHWECHTEN時代の仲間達の後ろ盾もあった。彼らの中には、丁度引退を考えていて顧客を引継いでくれる調律師を探していた人もいた。他の仲間達からも、何件か紹介をもらえた。なので、ギリギリだが、独立開業してもやっていけそうな目処が付いたのだ。
 しかし、宗佑は開業することを興和楽器の関係者には誰にも話さなかった。これ以上、特約店との関わりを持ちたくなかったのだ。
 部下の大多数は、突然の宗佑の退社を悲しんだ。技術的なアドバイザーとして、また精神的な支柱として、宗佑の存在は大きかったのだ。特に、宗佑を師と仰ぎ、崇拝していた篠原は、ショックのあまり休職する羽目になった。後に、嘱託として復帰するまでに半年以上を要したぐらい、篠原の精神的ショックは大きかった。

 しかし、部下の中でただ一人だけ、勝ち誇ったようにほくそ笑んだ人物がいた。宗佑を陥れた張本人だ。
 彼こそが、梶山茂だった。

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