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13月(#シロクマ文芸部)

(本作は1,950文字、読了におよそ3〜5分ほどいただきます)


 月めくりのカレンダーを自作しようと思い立ったのは、確か八月下旬頃だった。本音を言うと、カレンダーじゃなく趣味の水彩画を飾りたい、というのが動機だ。
 でも、自作の絵だけを飾ると、知人が遊びに来た時に、単なるナルシストと思われそうなので、「これはカレンダーなのだ!」という既成事実を前面に押し出すことで、ナルシズムを少しでもカモフラージュさせたかったに過ぎない。
 つまり、私は自作画の覆面として、「月めくりのカレンダー」を作っているのだ。そして、数ヶ月掛けて、年が変わる直前の大晦日に、何とか各月をイメージする絵を描き上げた。ギリギリ年内に間に合いそうだ。あとは、絵の隅っこに、カレンダーをプリントするだけ。表向き、そちらがメインでないといけない。
 これで、月めくりカレンダーの出来上がり……のはずだった。

 しかし、困ったことに、何故か絵は十三枚描き上げていた。



 床に所狭しと、十三枚の水彩画を並べている。描いた時の記憶を頼りに、一月は確かこの絵、二月はコレで……と順に並べてみたのだが、どうしても一枚余ってしまう。十三枚あるのだから、当然なのだが。

 さて、余ったこの絵は何月の絵なのだろう?
 いや、二枚描いた月は何月だろう?

 コンセプトとして、私の絵の個性でもある抽象画っぽい風景画にこだわったのだが、この判断は誤りだった。四月は花見、五月は鯉のぼり……など、各月を象徴する伝統的な行事や風習などをモチーフに、具象絵画の要素を少しでも取り込んでおけば、こういうミスは起きなかっただろう。
 いや、「カレンダーの為の絵」だったら、当然のように、それがモチーフになっていたに違いない。しかし、私はカレンダーに託けて、自作の絵画を飾りたかっただけ……つまり、「絵のためのカレンダー」なのだ。その為、時節の配慮は希薄で、描きたいイメージだけを作品に投影させたのだ。

 改めて、余った絵を観察してみる。七月のようでもあるし、十一月のような気もする。いや、三月のイメージにも合うし、九月に見た景色のような気もする。ますます、迷宮に迷い込む。
 そこで、今度は逆に一月の絵から再確認してみることにしたのだが……いきなり一月で躓いた。これは、本当に一月の絵なのだろうか? と疑問が湧いてきたのだ。
 尚も、じっくりと観察してみると、二月のような気もするし、十二月にも見えてきた。そうだ、この絵は一月じゃない、十二月だ!

 ということは、元々十二月だった絵は何月が正解なのか?
 そのまま一月と入れ替えればいいのか?
 それとも、余った絵が一月だったのか?

 迷いながら考えていると、二月の絵も違うような気がしてきた。そればかりか、六〜九月辺りも全然違うように思えてくる。さっき決まったばかりの十二月さえも、本当に正しいのか不安になってきた。余っている絵の方が、十二月に相応しい気がするのだ。
 埒が明かないので、もう一度、全てをリセットし、改めて、一月から順に並べてみることにした。すると、やはり一枚余る。それは当然だが……しかし、余ったのは、さっきまで十月だった絵だ。



 いや、もうどうでもいいか。どれを何月の絵にしようが、大した違いはない……半ば諦めの境地で、私は正しく並べる必要性にすら、疑問を覚え始めていた。そもそも、カレンダーなんて必要ないのだから。月替わりぐらいの頻度で、自作画を飾っておきたいだけなのだ。

 地球規模の気候変動により、この国が四季を失って久しい。
 どのみち一年中夏になったのだし、伝統とやらを守る為だけに、AIの力を借りて形だけ残されている四季の行事や、それらを彩るバーチャルな植物——桜や紅葉や萩や椿や紫陽花など——も、今では、全て海や入道雲やスイカや蚊取り線香などと一緒のフレームに収まる時代になった。菜の花もススキも雪も木枯らしも、ホンモノはもう存在しないのだ。
 そうなると、一年を十二ヶ月に区切ること自体、馬鹿らしい話に思えてくる。長年の習慣からそうすべきと思い込んでいるだけで、地球の公転周期から見ると、秋分と春分、夏至と冬至の四つの節だけ分かれば、後はどんな分け方をしてもいいような気がしてきた。

 なら、十三月があってもいいのではないか?

 一年は五十二週間と一日。つまり、(4×13)週間と一日だ。一ヶ月をどの月も均等に四週間、二十八日ずつにすると、一年は十三月までになるし、その方がキレイに割れるではないか。最後の月だけ二十九日を設ければいい。それで、三百六十五日になる。つまり、今日は大晦日、十三月二十九日だ。
 どうせ、毎日が夏なのだから、大した影響はない。

 しかし、大晦日の夕方だというのに、今日は一際蝉の声が煩い。



#シロクマ文芸部 、ショートショートで参加させていただきます。