つくり出す者の倫理とつくり出されたモノの倫理
ここ最近私の中でバロックの通奏低音のように流れていた倫理の問題と、ここ数日目にした幾つかの出来事がノイズだらけの頭の中で一瞬のハーモニーを奏でたようなのでここに記録する。
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先日大きな漫才コンテストがあった。
これは漫才"コンテスト"の番組なのだから、ただ漫才や落語のネタを放送する番組と大きな違いがある。
それは舞台裏が紹介されること。
短い時間ではあるが、ネタではなくネタを発する人間に注目が集まる。
そこはネタとは正反対。面白おかしい設定や抱腹絶倒のボケは無い。コンテストにかける意気込みや苦労が、青春映画のような血と汗と涙が真面目に、つまり漫才との見事なコントラストで、且つエッセンスとして適度に添えられる。
彼らはおバカなことをしているように見えて、実は並々ならぬ努力をしているのだということ。
おバカなことはおバカな人はやってはいけない。
いや、少なくとも頂点に立つような人間には見えぬところで並々ならぬ努力と苦しみがあるのだと。
これは、倫理だ。
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一方、昨日は別のところで、お笑いの不謹慎さについて触れることがあった。
かつては、食べ物を粗末にしたり、親からもらった身体を傷つけたり、老人や外国人や少数者を揶揄うようなネタが溢れていたと。
それは半ば郷愁のようだ。
倫理のかけらもない?
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以上のふたつは紛れもなく私も感じるところだ。
これは矛盾しているだろうか?
分裂しているだろうか?
いや、これはタイトルに挙げたとおり、つくり出す人間とつくり出された何かという親子程度には関係するが全く別の存在における話なのだ。
だからそれぞれに思う存分哲学する。
続く。
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