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人を傷つけない配慮した作品は表現の自由を奪うか ~④~

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作品が(間接的)コミュニケーションである以上、誰かに何かメッセージが発せられ、それを受け取る人がいます。

発する人が自由に表現できることが守られるべきである
同様に受け取り手の自由を守ることも大事です

そのコミュニケーションに、誰かを傷つける可能性や誰かを傷つけてでも伝えたいメッセージがあるのなら、最大限の考えうる限りの配慮をしなくてはいけないのです。他者に優しくすることは、表現の自由を奪いません。

表現(作品)は、感動したり、勇気をもらったり、救われたり、憤ったり、様々な感情を私たちに与えてくれます。時に誰かを傷つけることもあるかもしれません。
傷つける可能性があると知っているなら「つらいシーンがあるけれど、この作品のメッセージのために必要だったのです、それを承知でぜひ見てほしい」と言えばいいだけなのです。

作品を通じてメッセージを伝えるという間接的コミュニケーションにおいて、事前に注意が必要だと伝える直接的コミュニケーションを省いてはいけない。ということだと思います。


人を傷つけないという制約は表現を萎縮させるでしょうか


自分が発するメッセージが誰かを傷つけないかを考えることは、むしろ創造性を広げてくれると思います。他者の傷に気づくことができたら、表現の幅は広がるからです。

他者の立場に立つということは、何かを表現するときに大事なファクターです。「このキャラクターならどう思うのか」自分ではない人の立場を想像できなければ本を書いたり演技をしたりできません。歌を作るときにも歌うときにも必要な創造性です。


日常の生活でも、何かを制作する時にも、意図しなくても誰かを傷つけるかもしれないし、誰かに傷つけられるかもしれない。それが生きるということかもしれません。
でも傷つけたと気づいたら次は気をつければいいし、誰かに傷つけられたらもうしないでほしいと伝えるしかないのです。
そうやってコミュニケーションを発する側にも受け取る側にもなる私たちは、互いの傷に気づきあって自分たちが互いに傷を付け合うことを少しづつ減らして世界をよりよくしていくしかないのです。


余談。29歳結婚できない女性というキャラクターはアリかナシか。

続き⑤


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