シンワよ、フヘンの新世紀へ還れ。そして、全ての子供達【チルドレンへ】に……(シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖感想)

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』が2021年3月8日に公開された。
この記事は当該映画の感想記事でもあるが、それなりにエヴァと関わって来た一人のオタクがする総括でもあり自分語りでもあることをご了承されたし。当然シン・エヴァンゲリオンのネタバレを含むこととなるのでご注意あれ。



警告

・とても長い構成の文章となっているため、時間に余裕がない方は章毎に読み進めて後日へ持ち越すなどの対策をおすすめする。

・かなり遅めの投稿をしておいてお恥ずかしい話ではあるがなるべく観賞時点でのストレートな感想を打ち込むべく、映画上映後に公開・放送されたスタッフインタビューなどを見ておらず結果的に事実誤認となっている箇所が出るかもしれない。その点もご了承されたし。プロフェッショナルの流儀が早く見たい。



補完という名の思い出話

 序盤は思い出話になるので完結編の記事を早く読みたいと言う方は飛ばしてもらっても構わない。
 新劇場版の企画が公表された本当に初期の段階では完結篇公開は2008年夏とされていた。間に某ゴジラや某ウルトラマンを挟みつつ、ウイルスの影響も受けての延期に延期を重ね2021年、エヴァようやく完結するというわけだ。
 正直に言わせてもらえば、自分が初めて接した時のエヴァは「既に終わった伝説的アニメ」という印象であり、大多数オタクの認識もそのようなものであったと思う。
 時に西暦2002年の夏。
地上波で放送されていた、ファンが選ぶアニメランキングとかそういった番組でエヴァを見たのがきっかけだ。
司会は確か爆笑問題だったと記憶している。
お察しの通りこの手の番組は上の世代が懐かしむような作品の紹介ばかりで、出てくる作品はお馴染みというのがお決まりなのだがそうした面子の中にあって比較的最近の作品だったエヴァの紹介に心奪われたのだろうか、と今にして思う。
紹介されていたシーンは第六話「決戦、第三新東京市」ーー
ここまで言えば大体分かると思うが、自分を救出にやってきたシンジとのやりとりで「笑えばいいと、思うよ」と言われてそのままニッコリと笑い返す綾波のあのシーンである。
 当時、週末はレンタルビデオ店で映画を借りる習慣があったのでなんとなくその番組のことを覚えていた自分はエヴァのVHSビデオを借りてきたのだ。
当然、その日の内に視聴する。

 そして……


 私はエヴァに憑りつかれた。

子供向けの番組はそれなりに観ていたと思う。
だがアニメに熱中した記憶はほとんどない。

 だから、私は知らない。
人類を守るためのスーパーロボット(正しくは人造人間だが)搭乗を拒否する主人公。
事あるごとにガチトーンで絶叫するメンタルの主人公。
敵も味方もブシャーーーーっと勢いよく流血する生々しいバトル。
待ってるエレベーターから苦手な父親が出てきたので硬直、そのまま乗らずに扉が閉まってしまう嫌な間。
感情が希薄すぎるヒロイン、そしてイヤーンな感じの押し倒し。
難解な用語と意味深な台詞が乱発される所謂謎展開ーー
この時は確か6話分(ヤシマ作戦)までレンタルしていたと記憶しているが、ーーある種中毒的だったと言ってもいいーー毎週少しずつレンタルして、旧劇完走までさして時間はかからなかった。

人間関係や人類補完計画の不穏さが徐々に目立ってきたものの、物語が順当に面白くなっていったのは確かだ。
だが弐拾五・弐拾六話、TVシリーズ最終回で置いてけぼりにされ、人類の滅びと他人の肯定を圧倒的な映像スケールで描いた映画版の25・26話、更にはネットの謎サイトや中古書店で売られていた謎本などを漁り……死海文書の謎とかじっくり読んでましたよ……
燃え尽きたのか、憂鬱になったのか、狂ったのか、今でもよく分からない。
不健全な言い方をすればエヴァから離れられなくなっていた気がする。
何度も何度もレンタルしてリピートしていた。
特に旧劇の25・26話を。
後に自分はデビルマンや火の鳥にハマっていくので終末へと向かっていく中で描かれる人間の愚かしさやバイオレンスや映像美を好む、その導線がここにあったのかもしれない。

 そしてファーストインパクトを引きずったまま、個人史におけるセカンドインパクトが発生する。
2003年、つまりエヴァのリニューアルDVDが販売開始された年である。
自分には実感の湧かない話だが、2003年は「エヴァ再起動」の年とも呼ばれているらしい。
だが分からなくもない。
後に企画が頓挫するハリウッド実写映画化の報や関連商品(超合金や復刻したカードダス)の報で当時のアニメ誌で特集されていた記憶がある。祭りをしていたような印象だ。
 自分もDVDが販売開始されたという話は聞いていたが、学生の財力はたかが知れているので細々と単巻を買い続けていく予定だった。
当時のDVD販売スケジュールは、6月にDVD-BOXが、7月以降に単巻が毎月2巻ずつ販売されていくスケジュールだったのだ。
 確か8月のことだ。
地元のレコードショップに足を運んだら、それを見てしまった。

受注予約限定であるはずのDVD-BOXが棚に並んでいるのを……

店員に事情を聞いたところ、キャンセルされた品が並んでいたとの事らしい。
親に頼み込んで買って貰いましたよ、4万弱……今思えば地方のショップだったから売れ残って"くれていた"、運が良かったのだと思う。

 ここまでは記憶も濃いがその後はコミック版を連載と共に追ったり、ゲーム版やらたまに参戦するスパロボをプレイしたり、他のアニメを見続けながらハマり続けた。
しかし、この時点でもエヴァは基本的にもう終わったアニメであるとの認識は崩れていない。
定期的に新作のゲームがリリースされるのは凄いと思っていたが、それはコンテンツとしての底力が凄いのだと思っていた(テレビ版でIFの可能性を提示したことと劇場版がバッドエンドで終わったことに対するフラストレーションの結果でもあると思う)。


そして、2006年のエヴァンゲリオン新劇場版制作発表



「え?」……と困惑したのが第一印象。
旧劇の「気持ち悪い」の終わりも分かりやすくない終幕だったが、あれはあれで納得しようとどうにかこうにか心の中で考察という名の格闘に勤しんでいたあの日々はなんだったのだろう?という気持ちもあったりした。しかし、破のラストあるいはQを見た段階でそういうのは吹き飛んだ気がする。
庵野秀明がエヴァと共に踏み出すであろう新たな地平を見てみたい、と純粋にワクワクしていた。



 序破Q、それぞれの感想も述べたいところだがあえて割愛させていただく。
ただでさえ思い出話で尺を取ったがため、既にnoteが推奨する読みやすい文字数を大きく逸脱する長文記事となってしまっている。次の機会を待って頂きたい。
 確かに言えることは、当時以上の圧倒的なアニメーション製作力を注ぎ込まれたことで伝説的だったアニメ作品エヴァンゲリオンが日本国民というレベルの熱狂コンテンツへと押し上がり、
新たな物語の構築はかつての物語を知る既存ファンであればあるほどヤキモキし新たな考察の風を呼び、
 そして何より庵野秀明がリスペクトする手塚治虫の火の鳥富野由悠季の伝説巨神イデオン永井豪のデビルマンといった数々の黙示録的名作を彷彿とさせるスケール感への移行、旧劇における人類の終末の更にその先を描く姿勢には度肝を抜かれた……



 ではここから完結編感想


 物語は、補給のためユーロネルフの復旧オペレーションを行うヴィレとそれを阻止せんとするネルフ軍勢との戦い、パリ市街の攻防で幕を開ける。
庵野秀明の名作「ふしぎの海のナディア」の最終決戦でお馴染みのパリがいきなり戦場になるとは嬉しいファンサービスだ。
八面六臂の動きを見せるエヴァ8号機とこれまた特異なフォーメーションを展開するヴィレ艦隊、バリエーション豊富なネルフのエヴァ軍団との攻防が見所であるが、個人的なところで言えばマヤをはじめとするメカニックチームによる復旧オペレーションの息をつく暇もない緊迫感が旧シリーズにおけるイロウル戦を想起させ、とても懐かしい思いを抱く。新劇場版ではこの手のサイバー戦がほぼ皆無だったためにとても嬉しかった。
 この冒頭を終えた後に、最初の大きなターニングポイントが描かれる。
ニアサードを生き延びた人類による集落、第3村での日々である。
このシークエンスは非常に情報量が多く、
Qでは消息が不明だったトウジ、ヒカリ、ケンスケ、更にはペンペンが生存そして当然ながら14年分の成長を果たしそれぞれ新しい生き方をしていたこと。加持リョウジはニアサードに続けて引き起こされようとしたサードインパクト阻止のためにその命を捧げたこと。
ミサトは加持との間に息子(その名も同姓同名の加治リョウジ)を儲け、その意思を引き継ぐため、そして息子のリョウジとシンジを守るために戦いに挑んでいたことが明らかとなる。
トウジと委員長が結婚して子供がいる、とかアスカがケンスケのことをケンケンと呼ぶ間柄になっている、サバイバルオタクの知識を活かせたケンスケ的にはニアサード後の世界を「悪い事ばかりじゃなかった」と評していたりとか、とか委員長のお父さんはこれまでエヴァの世界ではあまり見られない礼儀に厳しい人だったな……などなど語りたいことがあまりにも多い。
 特に、旧シリーズではスイカに水をやることしかできないと自嘲していた加持が地球生命絶滅の可能性を鑑み、方舟による種の保存という独自の対処を考えていたという設定はとても興味深い。スイカへの水やり、畑作りといった趣味と思われる描写が全て、加持リョウジという人間性に深みを与えるスパイスとなったのである(これは旧シリーズの参号機・バルディエル戦以降日常が映し出されないのではなく文字通り"喪失"されてしまったため、自然と物語からフェードアウトしてしまったトウジらのアフターが描かれたこととも相通ずる)。
 村に行き着いたエヴァパイロットの面々のドラマも濃厚に描き込まれていく。農作業に従事したり、本に興味を持ったり、挨拶やおまじないを学ぶことで感情を得ていく黒綾波あるいはアヤナミレイ(仮称)、そういう仲になっていたケンスケとアスカの家に転がり込むもほぼ廃人状態から復活していくシンジとなかなかポジティブな方向で展開していく。
 かつての舞台、第三新東京市は人類の科学万能と誇る要塞都市であったが、このような住民同士のつながりや窮状の中だからこそ強くそして楽しく生き抜こうとするたくましさなどの描写はほとんど描かれていなかった。
これはここ10年の日本を見てきた人にならピンと来る姿と雰囲気だ。多くの悲しみを残した震災そして復興、立ち上がる日本人の姿の反映なのかもしれない。

 もう一つこのパートで特に強く感じるのが時間の経過や成長による視点の拡張、言うならば大人や親に成長して物の見方が変わったというのが顕著に描かれているということだ。エヴァパイロットに接するトウジらの変化や言動から色濃く香り視聴者にも分かりやすい。
旧シリーズにおいて、特にシンジの視点からはそういった大人の考え方や理屈というものは取り付く島もなく拒絶する場面が目立っていた。
そうした旧シリーズの拒絶と否定の人物相関図から一転し、肯定と理解へ踏み出すシンエヴァ……こうして見ていくと時間が経つことで人の物の見方は変わるし、アニメ見届けていた視聴者と作り手も歳を取ったのだと突きつけられているのだと思った。
 一個の人格を持ち合わせシンジを好きだと言った黒波の死、ケンスケからの親と向き合えのアドバイスを経てシンジは自らの意思でヴンダーへ乗り込む。最終決戦の始まりである。
かつてのヤシマ作戦あるいは男の戦い、などでもそれを目の当たりにしたが自分が持ち合わせていない他者の考えに触れることで認識を改め決戦へと向かう、数少ない溜めのシーン作り、とても燃える。
エヴァはいつも突然なにかが襲い掛かって不和を呼び込む……がこの第3村のストーリーでは長い時間を掛けてシンジが父親や目の前の状況へ立ち向かう決意を固めていく、この姿はエヴァンゲリオンを終わらせようとする作り手の確かな意気込みそのものではないだろうか。

ヤマト作戦


ヴンダーが向かうはかつてのセカンドインパクトの爆心地・南極に移動したネルフ本部。これを急襲し、碇ゲンドウの野望を阻止する最終作戦ヤマト作戦が発動される。その途上でシンジはどうしてアスカが自分を殴ろうとしたのか、怒りを向けているのか、その理由に気づいたと語るシーンがある
それは破において、アスカの乗る3号機が使徒に乗っ取られた際、助けようとも殺そうともせず、ただただゲンドウを非難し責任逃れしたことに対する怒りだった。
この点からもシンジが大人に近づいたことがよく分かる。
非人道的と言われようともダミープラグを起動することで結果的に事態を収め、シンジを救ったゲンドウ 、全てのけじめをつけるためシンジを遠ざけていたQ以降のミサト、冷淡なようでいてシンジの置かれた境遇へ一定の理解を示していたヴンダーのクルー(オペレーターのミドリだけ納得していないのは後の伏線)いざという時には決断を迫られ責任を取らなければいけない、だが決してただの無情ではない。
第3村と同じく大人のあり方を許容する見方。
エヴァ終わらせるために必要な材料はこういうことだぞという心構えを済ませておけ、そういう言われているような気がした。

 かくして発動されるヤマト作戦。
特攻をかけるヴンダー、立ちはだかるはネルフに仕える同型の神殺しの方舟たち。
13号機を止めるため突入する2号機と8号機、立ちはだかる有象無象のエヴァシリーズ。
この辺りのアクションは全てがすごいのだが特筆したいのはやはり腕だけのエヴァンゲリオンである……量産コストで考えれば正しいのかもしれないが、ついにこんな物までエヴァンゲリオンと称される時代が来てしまったのか……。
 そして、なんやかんやでゲンドウがミサト・リツコと対峙するのだがこのやり取りの中にも恐ろしい情報量が込められる。
ゲンドウはかねてより登場していたアイテムネブカドネザルの鍵を用いて人外化したこと、
人類補完計画最初の提唱者はミサトの父親の故・葛城博士であり、
そもそも人類補完計画は人類に残された二つの未来(シナリオ)「使徒に滅ぼされる」か「使途を滅ぼし、知恵を捨て永遠の存在となる」そのいずれもを覆すための(ゼーレの)計画であること、
絶望のリセット(ゼーレ案)ではなく希望のコンティニュー を主張するミサトとリツコ……

 一度しか見ていないのでうろ覚えではあるがかなり核心に触れていると言ってもいい。旧劇のそれと繋がっているかは微妙なところではあるが。
そして、このやりとりで注目したのはリツコのポジションである。
Qでは髪を切るなどビジュアルなどが大きく変化した彼女だったが、ドラマへの関与はかなり薄めに留まっており、旧シリーズである意味衝撃だったゲンドウとの関係性は一体どうだったのだろうか、もしや無かったことになっているのか?と誰もが疑問に思っていただろう。
しかし、ゲンドウへの銃撃及び浴びせた台詞を鑑みるに愛人と愛人関係にあり、そして決別したということなのだろう(撃つ前に撃ち返された旧劇とは違う行動に至っているとはそういうことである)。友人と険悪になることもなく、男に使い捨てられることもなく、女としては憎んですらいた母親に裏切られることもない、彼女にとってのやり直しは長年の友人に対して思う様な感情で「良かったね」と言ってあげたい。

 自らの目的を達するためにエヴァ第13号機とともにマイナス宇宙へ向かうゲンドウ。
立ち向かう決意をすでに固めていたシンジはそれを追おうとするがヴィレのメンバー北神ミドリと鈴原サクラが銃を構えて阻止に出る。
ニアサードで家族を失いどうしてもシンジを許せないミドリ、恩人でありカタキと捉えシンジを不幸にさせないために搭乗を阻むとかなり複雑な心境のサクラ。
一触即発の空気、事実サクラの発砲がシンジへ向かうが間一髪ミサトが庇い負傷するが、ミドリやサクラを説得。無事にシンジを送り出すこととなる。
愛憎、恨みと悲しみ、何かを始めてしまった・何かに巻き込まれてしまった 、それに囚われてしまった時、人間はどのようにして先へ進んでいくべきなのか。
この構図はエヴァという作品を作ってしまった者たちあるいはエヴァという作品に見られてしまった者たち、色々な立場を当てはめることが出来る。
短いシーンながらも冷酷な指揮官だったミサトがいつもの、シンジを信頼するミサトへと戻り危険から遠ざけるのではなく、その意思と決意を尊重する姿に目頭が熱くなる。
思い返せば、序・破では状況に流されるのではなく必死に立ち向かおうとするシンジを後押しする唯一の大人という形でスポットライトが当てられていた(故にQでのちゃぶ台をひっくり返された印象の強さにも繋がるのだが)。改めてシンジを後押しするシンエヴァのミサトを見るに、旧シリーズでは不和と発狂の中でいつの間にか掻き消されてしまった感のある大人のあり方を改めて描こうという意図があったように思えてくる。そして、ミドリ達からは凶事に見舞われても振り返らない何かを恨まないで先に進む術があると学べる。

アディショナルインパクト


 送り出されたシンジはマリ、そしてやはり初号機の中に存在していた綾波(通称・白波)と共にゲンドウの目指す、マイナス宇宙のゴルゴダオブジェクトへ向かう(ちなみにこれはウルトラマンAのネタである)。

正直ここからの展開は一度見ただけでは分からない。恐ろしく難解な描写、メタ構造も入り混じり、とても把握が難しい、エヴァンゲリオンらしいと言えばそうなる展開の連続である。一応自分なりに語れるところまで語ろう。

エヴァンゲリオン初号機 対 エヴァンゲリオン第13号機
 それは半ばネタのように予想されていた「もうゲンドウがエヴァに乗って、親子でどつきあいして決着を着けろ」などと言われていた親子同士のエヴァンゲリオン対決が本当に実現してしまった。
戦いのステージはミサトのマンション、レイの部屋、挙句の果てには舞台裏などメタメタしく移り変わり、だが戦いでは決着が着かない。ついに腹をくくったシンジによる親子の対話が始まる。
ここで旧シリーズでも明かされなかった言動の過去や家族との関係性がついに語られる。
物語を進める上では必須の情報開示ではある、本当に終わらせるつもりなら尚のこと。しかし、20年以上に渡って謎のヴェールに包まれていたゲンドウの物語りである。驚きと言う言葉では物足りない不思議な感覚でその話を聞いていた。
シンジに近いといえば近い家庭環境と孤独、本とピアノに救いを求めたのも共通項、そしてユイという救いーー寡黙な父親だった男がここまで長く、そして深く自分のことを語るとは誰が予想しただろうか。そしてこの語り口と演出はファンにはおなじみの補完である、これは明らかにゲンドウの補完である。 かつては碇シンジのそれが描かれた補完、この映画ではゲンドウのそれを皮切りにそれを他の人物たちにも当て込んでいく。
 そんな告白を経て、ゲンドウは人々の中に存在すると言われる架空のエヴァンゲリオン、エヴァンゲリオンイマジナリーと槍を用い、アディショナルインパクトが発動する。
それもまた旧劇と同じくATフィールドのない世界で妻ユイと再会するために。
ここでかつてシンジが否定した選択をするためにという旨の発言が出てくる。更にここから旧劇との関連を窺わせるあからさまな描写が一気に増えてくる。これをして両世界観が繋がっている、とは断定できない。おそらくその答えも出てこないだろう。
エヴァンゲリオンイマジナリーの登場を以て、物語の世界と観客側の意識とが繋がったのだと思われる。

人類と科学に夢を……


 親子の対話が進む一方、残された登場人物の物語もまた終局へ向かおうとしていた。
冬月はどうやら旧知の間柄だったらしいマリと再会した後、ゲンドウに対する役目が終わったことを悟りLCL化、死亡する。
それは同じくLCL化した旧シリーズの最期と同じだが、冬月役の清川元夢氏 が同じく庵野作品のふしぎの海のナディアで演じたガーゴイルが塩となって消えるというところも意識しているように思える(有人運用を想定してなかった方舟での死=アトランティス人以外には入り込めない結界に踏み込んだ結果としての塩化)。

 ミサトはシンジを援護するには新たな槍が必要だと察知し、ヴンダーを用いての槍の生成を指揮する。
そうして出来上がったのがガイウスの槍、またはヴィレの槍と呼ばれる物。
それは、人間の知恵によって作り出された創造物。
旧シリーズでは神の複製品やオーパーツに翻弄され、いつしか置き去りにされた人の知恵と文明というテーマが最後の最後で再び提起された。
 マリは言う。
「人類はここまで来たよ!ユイさん!」
既に総員を退艦させて、ミサトが一人残ったヴンダーはエヴァンゲリオンイマジナリーに特攻。命を賭して、槍を届けるのだった。
リョウジとシンジ。二人の息子の未来のために。


このドラマは今作で一番分かりやすく必死に生きる人間の肯定と最高の成功談を描き、最大級のカタルシスを感じられるシーンだ。
人類という種の存続のために血路を開く覚悟、そして人が科学に馳せる夢という要素は同じ庵野秀明作品のトップをねらえ!やふしぎの海のナディアを彷彿とさせ、改めての回答なのだと言える。
Q以降ミサトの本音を語らない冷酷な指揮官でありながらも親の人情も持ち合わせるという人物像は明らかにナディアのネモ船長のオマージュだろう。ネモ船長もまたミサトと同じく、自身の子が生きる未来のため犠牲となる選択をする。ナディアは当然父親との別れを泣き叫んで惜しむ。だが自分が生きることこそが父親の願いなのだと理解し受け入れ成長し、ナディアの物語は完結するのだ。
死を受け止める強さ……ピンと来た方もいるだろう。
そうだ、シンジがミサトの死を受け止めたことで「大人になったな」と成長を見出すゲンドウという描写がこの後入れられる。他人を拒絶していた子供が衝突と理解のステップを経て大人になっていく……シンジとナディアの成長は実に似ている。
旧シリーズではエヴァとナディアの物語を地続きとして設定しようとしたが諸般の事情で没になるも、一部繋がりを持った設定画がドラマCDやゲーム版などで明かされていることはファンの間では周知の事実だが、新劇場版ではナディアとの繋がりも含めたやり直しがようやく実現したのだろうと感慨深く思ってしまう。

 息子の成長を知ったゲンドウはそこに亡き妻の姿を見て、物語から退場する。
そしてカヲル、アスカ、レイ、 様々な意味でエヴァと関わることを運命づけられた子供達(チルドレン)の補完も始まる。

あの日から続く新たな補完

 実は綾波と同じくクローン人間で孤独だった式波の方のアスカはケンスケの元へ。 アスカはシンジを「アンタのことが好きだったんだと思う」だったそうだが、そんなシンジが贈る言葉は「僕を好きでいてくれてありがとう」。
そして、赤い海に横たわり、成長(エヴァの呪縛から解かれた?)したためスーツがはだけてるアスカが映る。旧劇の惣流を想起させる。
だから、そこを含めてのシンジの感謝なんだと思うと涙涙。

 渚司令描写や加持との関係性の真偽はわからない、が面白い考察材料になるだろう。だが シンジの幸せを追い求めていたのは自分の幸せを求めていたから、というカヲルの解釈はストンと腑に落ちるものがあった。どこか人間離れした聖人、そのために何度も繰り返しの中で生きてきた非業の運命はとても普遍的な自分のエゴを認識し物語から去って行く。
使徒・エヴァパイロットというキャラクターから人間となり、渚カヲルは解放されたのだ。
時系列は前後するが、補完を拒否したシンジにカヲルはこう言っていた。
「君はイマジナリーではなく、既にリアリティの中で立ち直っていたんだね」
ここで旧劇のカヲルの台詞を思い出してほしい。
「再びATフィールドが、君や他人を傷つけてもいいのかい?」
"あの時"より大人になっていたシンジを実感しての言葉だったようにも聞こえてくる。

 そして綾波レイは自分の意思で居場所を見つけるために旅立つ。
一時期、いや今もエヴァを紹介するとなればそのビジュアルが消費される、いわばエヴァのアイコン。
存在を最もエヴァに縛られていた彼女の補完の完了と共に、シンジは最後の行動を起こす。
エヴァのない新たな世界への作り変え、すなわちーー

ネオンジェネシス(NEONGENESIS)新世紀の始まり。

旧劇26話でのキールの台詞「始まりと終わりは同じところにある。良い。すべては、これで良い」
エヴァQでのカヲルの台詞「始まりと終わりは同じという訳か」


シン・エヴァンゲリオン劇場版:||とは、
シンセイキ(新世紀)エヴァンゲリオン劇場版:||でもあったのだと私は確信した。

エヴァンゲリオン新劇場版=新世紀エヴァンゲリオン


 親が好きなのでたまたま知っていたユーミンこと松任谷由実のVOYAGER〜日付のない墓標、これの林原めぐみさんのカバーバージョンを挿入歌として進行していくNEONGENESISの儀式あるいは卒業式とでも言おうか。
槍を自らに突き立てることでエヴァの存在が消える儀式らしい(旧劇サードインパクトで量産機が似た姿勢を取っていたりする)。シンジは初号機と共に自害するはずだったが初号機の中にいたユイがその身代わりを買い、そして第13号機のゲンドウも共に貫かれ消滅する。
ユイはこれを見越して初号機の中に取り込まれたのだろうか。そして旧劇ではシンジと終ぞ分かり合えず初号機に上半身を喰われたゲンドウ、今度は愛する奥さんと共に旅立てて良かったね。親としての責務を果たしたとも見れる……親の愛を受けるからこそ子供は離れていつか自立していく……これは漫画版いわゆる貞本版の親子像のあり方に近いのかもしれない。
そして他のエヴァもそれに続き次々消滅していく。
同時に世界に溢れかえっていたインフィニティも元の姿、人間や犬の姿へと戻り現実へ続々回帰していく。
この中にはエヴァという作品に魅了された我々も含まれるのだろう。

 さようなら、全てのエヴァンゲリオン

 エヴァンゲリオンの終局とともに線画の状態、アニメーションとして無に近づいていくシンジ。 だがマリーー本人曰く乳のデカい良い女ーーが迎えに来る。そして二人は現実へと帰還し、駅の外側へ走り出すのだった。
これが25年続いたエヴァンゲリオンは 本当の終劇である。

 マリが誰をモデルとしているのか、その存在は誰の体験に基づくものなのかそこについては想像のし甲斐があるが、ここではあえて断定を避けよう。
レイでもアスカでもカヲルでもミサトでもなく、マリ。新劇場版オリジナルのキャラクターがシンジと結ばれる(ここも断定は出来ないが)のは意外と言えば意外なのだが、なるほどエヴァを終わらせるために参入してきたキャラだということなのだろう。
シンジたちの向かいのホームにいた一緒にいたレイとカヲル、それとは別にいるアスカの存在、何よりも度肝を抜いたのがラストシーンの成長したと思われる碇シンジの声を演じるのが緒方恵美氏ではなく神木隆之介氏という事実。
何故、新世紀はこういう形に至ったのか。
その解釈は、人の心の数だけ存在するだろう。
個人的な考えで言わせてもらえば、
アスカと共に生きていくのは主人公ではないサブキャラであり(ケンスケにはとても失礼)、
カヲルは人間としての願望を暴かれ、
レイは自分を縛っていた作品そのものから巣立っていく。

カヲルとレイに限って言えば、旧劇でこのような台詞がある。

シンジ「でも、僕の心の中にいる君たちはなに?」
レイ「希望なのよ。人が互いに分かり合えるかもしれない、ということの」
カヲル「好きだという言葉と共にね」
シンジ「だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ」


 劇中の現象やシンジの受け止めで考えるならこれは(自分が殺した)カヲルや(大量複製されていると分かってしまった)レイが自分の現実の世界(リアリティー)に実存しないと受け止めているから、シンジの中の「希望」という概念の記号(アイコン)になってしまったのだということだと思える(逆にアスカは「生身の女性」として認識しているので、新しい世界を二人で生きるという結論になったのだ)。

……なのだが作り手の視点に寄って考えるならば、
アニメキャラに自分勝手な思いを押し付けるオタクに対する痛烈な批判、
お前ら都合が良すぎるんじゃ!!!!
旧劇のメッセージも世間的には「オタクたち、アニメから現実に戻れ」と受け止められているが、
「アニメのキャラクター」としての偶像を徹底的に破壊する=彼らの解放で、エヴァンゲリオン、碇シンジがその代表作だと国民的に認識されている緒方さんではない声へ、背景も実写調へと変わるのは旧劇からさらに一歩進んだ、より普遍的な形でのリアリティーの肯定だと思う。
映画を見る観客の映像や監督に浴びせる罵詈雑言や誹謗中傷の画像を交えた刺々しさはもうそこにない。


 ここまでの論調でもわかるように、シンエヴァに関しては私はほぼほぼ全肯定で受け止めている大絶賛だ。
予想外のインパクトや映像表現があったかと言われるとそこは微妙だ。破やQのようなキレがあるとは言いづらいかもしれない。
だが、思った以上に優しかったのだ。
そして、エヴァンゲリオンがこんなに優しくてもいいのか?
いや、それでいいのだ。
旧劇の頃からは想像もつかないような温かいお別れ。
「分かろうとした!!」と口で言いつつも旧のシリーズでは分かっていなかった。
本当の意味で分かろうとするのはこうやって膝を突き合わせることを言うのだと思う。
エヴァとともに歩んだ人生の長さを受け入れる最適解がこれだったのだと思うととても据わりが良い。
楽しかった思い出と同時にどこかわだかまりを感じさせる一種の呪い。
そんなエヴァンゲリオンと笑顔でお別れできたのだ。
私の中のエヴァンゲリオンもまた槍で自害した。神殺しは見事に遂行されたのである。

ありがとう、碇シンジ

ありがとう、エヴァンゲリオン

ありがとう、庵野秀明

しかし 解放されたと言っている手前言いづらいが
私はエヴァンゲリオンを好きだった、

ではなく

エヴァンゲリオンを好きだ。
としばらくは現在進行形で主張することを許してもらいたい。

 そして、さようならはまた会うためのおまじないーー

我々を含めたエヴァンゲリオンがいつかまた会える日を信じている。

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