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<第6回>食べて寝て働いて、時折り本に齧りつく毎日

先月は弊社の期末決算(毎年9月)でしたが、さまざまな問題に翻弄されながらも、なんとか新しい事業期を迎えることができました。全国の書店の膨大な実売データ、怒涛のSNSでのパブ情報、進む商談や会議のオンライン化等々、ともすればデジタルの奔流に押し流されてしまいそうになります。とはいえ、難しい顔をしていても仕方がないので、ここはグッと堪えて「笑顔」でいきたいものですね。気がつくと、ほぼ一日の大半、しかも土日返上で仕事に勤しみながらも、なんとか本だけは手にしています。私にとっては精神安定剤でしょうか。読書は趣味には違いないのですが、仕事以外は寝て食べて、本を読んでの毎日も、これはこれで悪くないかなと思ったりもします。

≪今月の購入リスト≫
『GIVE&TAKE~「与える人」こそ成功する時代』アダム・グラント著(三笠書房)
 ※ブックスタジオ新大阪店で、新装開店の挨拶時に購入
『死にかた論』佐伯啓思著(新潮選書)
 ※富士書房大久保店にて購入
『批評の教室~チョウのように読み、ハチのように書く』北村紗衣著(ちくま新書)
『ケアの倫理とエンパワメント』小川公代著(講談社)
 ※ともに、ジュンク堂書店池袋本店のオンラインイベントで購入

■2021年8月14日
『死者と霊性』⇒「近代の超克」ということについて

前回の購入リストで紹介した『死者と霊性~近代を問い直す』(末松文美士編/岩波新書)ですが、店頭でうっかり(?)手に取ったところ、西田幾多郎の肉親の死に触れた哀切な文章を目にしたので、つい買ってしまいました。
ところが、本書は近代後の思想的世界観をコロナ禍のなかで築こうとする意欲的な書でした。第二次世界大戦中の「近代の超克」対談、および対談用に提出された論文を否定し、新たな地平を拓こうとしているようです。近代の問い直しから始まり、座談会を挟んで、西田幾多郎、鈴木大拙(だいせつ)、近角常観(ちかずみ・じょうかん)、宮沢賢治に言及する論文から、最後は井筒俊彦による、神秘哲学に始まって東洋神秘主義思想の帰結であるイスラムの霊性革命の論考で終わっています。

序章のよくまとまった近代論に目を通して、次の対談を読もうかどうしようか迷っているうちに、図らずも思い出して書棚から引っ張り出したのが、『二人称の死~西田・大拙・西谷の思想をめぐって』(浅見洋著/春風社)という加賀・能登出身の3人の思想家の系譜をたどる書でした。ずいぶん昔に購入したものです。
「刊行に寄せて」を書いていたのは、日野原重明さん(2017年没/享年105歳)でした。オウム真理教による地下鉄サリン事件の際に患者受け入れの陣頭指揮を執り、災害有事の模範的な処し方を示した聖路加国際病院理事長だった方です。日野原さんは第三高等学校時代に西谷啓治にドイツ語を習ってノヴァーリス(ドイツ・ロマン主義の思想家)の神秘的なテキストを講読し、京大では西田幾多郎の文学部講義を聴講、あまつさえ鈴木大拙の臨終を看取られています[「(鈴木大拙)先生の終焉(享年95歳)は静謐そのものであった」(『死をどう生きたか~私の心に残る人びと』中公新書)]。日野原重明さんは近年、書店店頭によくお顔写真が載った書籍が並んでいました。じつに人がよさそうなお爺さん(失礼!)のお顔に癒されていましたが、とてもすごい方です。

二人称の死」とは、柳田邦男の次男の追悼記[『文藝春秋』1000号記念号「犠牲 わが息子・脳死の11日」(1994年)]で一般的に認知されるようになったといいます。「二人称の死」というのは、一人称の「私」でもなく、三人称の「他人」でもなく、身近な人びとである連れ合い、親子、兄弟姉妹、恋人など二人称である「あなた」の死を指します。古くは『我と汝・対話』(マルティン・ブーバー著/岩波文庫)の関係性ですね。
西田幾多郎の愛児・幽子の死については、藤岡作太郎著『国文学史講和』の序(西田幾多郎著『思索と体験』岩波文庫・所収エッセイ)を読んだときに愕然としました。日本を代表する哲学者の、市井の私たちと何ら変わりのない生の声を聴いた気がしたからです。さらに子供の死となると、夏目漱石の末娘・雛子の死に思い至りますが(『彼岸過迄』の一章「雨の降る日」)、このへんでやめましょう。
ちなみに、松下幸之助も西田幾多郎と同様に、若くして両親兄弟を亡くしています。生病老死の問題は人知を超えていますが、必ず残された人たちに生の痕跡を残し、偉大な歴史を紡いでいくものです。死生観については後ほど。


■2021年8月21日
『GIVE&TAKE』⇒世界をよりよくするために、何を与えられるか?

生の問題に戻ります。本書は、アメリカの自己啓発書の王道らしく、きわめて明快な図式を提示します。人には「ギバー」「テイカー」「マッチャー」の3種があるそうです。「ギバー」は惜しみなく与える人、「テイカー」は情け容赦なく取り立てる人、「マッチャー」はきわめてギブ&テイクのバランスの取れた人だとのこと。中庸の「マッチャー」を定立(ていりつ)させたのが目新しく面白いですね。もちろん、そんなに人は明確に割り切れるものではないでしょうが、区分には便利なカテゴライズです。あなたも、身近な人を思い浮かべてみましょう。

◎ギバー=つねに相手の利益を考え、受け取る以上に与えようとする人。ただひたすら他人の利益のために行動することを心掛け、成果を分かち合い、助け、アドバイスを与えようとする。職場では稀な存在でも、家族や友人など親密な人間関係では、大概の人が打算なしのギバーです。
◎テイカー=つねに与えるより多くを受け取ろうとする人。自分を中心に考え、世の中は喰うか喰われるかの熾烈な競争社会だと理解している。成功するには、人の上に立ち、費やした努力はきちんと認められるように回収しようとする。ただし、たいていのテイカーは冷酷でも非情でもなく、自分の身を守るために用心深く、自己防衛的なだけであるそうです。
◎マッチャー=つねに公平という観点に基づいて行動する人。人を助けるときは、見返りを求めることで自己防衛をする。相手の出方に応じて、助けたり、しっぺ返しをしたりする。仕事においては、ほとんどの一般的な人が、この第三のタイプ。

そして、エンジニア、医者、営業職など、どの事例をみても、もっとも成功する人ともっとも成功しない人がギバーであり、テイカーとマッチャーは、ほどほどの成功を収めるそうです。ほとんどの人には、ほどほど成功が期待できるというところが、"アメリカン自己啓発書"です。ギバーが成功しないケースは、人のために自らの労力と時間を費やしすぎて、自分のすべきことが疎かになった場合をいいます。
アメリカ歴代大統領の経歴調査で、人を信用し、人の利益を一番に考えてギバーとして行動したのは、エイブラハム・リンカーンだそうです(他の大統領としては、ワシントンとフィルモア)。といったふうに、本書ではギバーである現代の人たちの成功事例の数々を紹介します。どれも見習うべき事例です。

なかでも、PART2に登場するシリコンバレーの成功者アダム・リフキンの挿話が興味深いです。彼のモットーは「私は世界をよりよいものにしたい。そしてそれを"うさんくさくなく"やりたい」「私は弱いつながりの強さを信じる」。また、彼の成功の秘訣は、「思いやりをもって相手に質問し、辛抱強く話を聞くこと」。この稀代の人脈づくりの達人の真の目的は、「ネットワークとは、自分のためだけにつくるものではなく、すべての人ために価値を生み出す道具であるべきだ」。もはや、ギブ&テイクを超越しているように思えます。

本書には、「恩送り」という単語が登場します。弊社で発刊した『社会問題の9割はビジネスで解決できる』(田口一成著)にも登場し、いい言葉だなあと思いました。誰しも、計り知れない「恩」を受けて生きているわけですから、感謝の念とともに、社会や次世代への「恩送り」に努めたいものです。


■2021年9月25日
『死にかた論』⇒日本人の「死生観」を考えるヒント

本書は、「死生観」がテーマです。日本人の死生観の歴史をたどります。ちょうど考えてみたかったので、いい手引書になりました。
著者は世界を襲った新型コロナ禍によって、さまざまなことを考えさせるきっかけの一つとして「死生観」を挙げています。いきなり死に直面させられることによって、人はなによりもまず「生きること」「いのちを守る」ことを全面的に選択し、徹底した自粛生活に入ります。こうして「生命の安全」が確保されれば、次の問題は、自分にとって大事なものはいったい何なのか、ということになります。「不要不急」のもののなかでもほんとうに大事なもの。それは人によって違うでしょうが、家族の団欒、趣味に生きること、仕事を全うすること、それぞれの「生の意味」が問われたわけです。そこから、人びとが現代の「死生観」へと意識を向ける契機となることを、著者は期待しています。

最初は宮下洋一著『安楽死を遂げるまで』(小学館文庫)に依拠して、安楽死について考えます。著者は、医師が一定の条件のもとに積極的に死を与える安楽死を含めて、自分の意志による死の決定権を可能なかぎり容認する方向で議論すべきだといいます。

西洋の近代合理主義では、すべてを「自己決定」「合理的理性」の枠組みに当てはめて議論しようとするが、死の問題はどうしても矛盾を孕むと、例を挙げて説きます。なかにはハイデガーの実存主義のように、死を前提にして、「死へ向けた覚悟において生を意味づけるべきである」という考え方もありますが。また、著者の問題意識は、「医学技術の進展で、人は容易に死ねなくなり、生と死の境界線はあいまいになってしまい、生と死のはざまでさまようことになってしまった。生き延びることよりも、いかに死ぬかこそが逆に切実な問題になってしまったのだ」といいます。そして安楽死問題に関しては、一つの考え方を押しつけるべきではなく、多様なケースを認め、その都度の判断(状況倫理)に委ねるべきである。ここに、「あいまい」で「ファジー」な領域をつくっておくべきだとの暫定的結論[村上陽一郎著『<死>の臨床学~超高齢化社会における「生」と「死」』(新曜社)]に強く同意します。

今日、ほとんどの死は、病院や終末期施設で迎えることになります。老衰にせよ病死にせよ、基本的には人為的に管理された死であり、厳密な意味での自然死などはあり得ない。とすれば、積極的安楽死も消極的安楽死も程度問題であり、人工死とは、いずれ周りの者が、気を配りつつうまく死なせることにほかならず、個人の尊厳もなければ普遍的なルールも、倫理的に正しい解もない。グレーゾーンをうまく処遇する知恵が求められるといいます。

そこから翻って、日本の伝統的な思想における生と死の観念に思いを馳せます。
西洋と違って、日本の死生観の根本には鈴木大拙のいう大乗仏教がもたらした「即非の論理」があるといいます。それは「AはAである」という通常の自己同一的命題ではなく、「AはAでなくしてAである」という否定を内蔵した逆説的論理です。『金剛経』『般若経』などで、「この世界(色)は存在しない(空)。そのゆえにこの世界(色)である」とか、「いっさいの存在は、存在しない(無である)がゆえに、それとして存在する」といったものであり、無我、無私として私を捨て去ることで、死から生をみる、あるいは死(無)を背後に置いて生(有)を覚知するといった思想になります。
もっとも、日本の伝統的な死生観は、本来はとくに死や生を強く意識したものではなく、もちろん教義に類したものなどなく、「死生論なき死生観」であったといいます。なぜ、そうだったのでしょうか。ここで柳田国男の『先祖の話』(角川ソフィア文庫)を挙げ、仏教を排して、その影響を受ける以前の日本人の信仰を取り戻そうとした柳田にとっては、こうして死後の霊魂を祖霊と見ることによって、つねに死者の魂を身近に感じ親しむと同時に、先祖の霊を一つの力、現生のわれわれを加護してくれる力とも感じることができたといいます。祖霊信仰です。

人は、死ねばその霊魂は山へ行き、一定期間留まったのちに、祖先という強力な霊体に溶け込み、祖霊となる。霊魂によって生死は連続し、社会制度上の観念としての家の存続に連なるということですが、折口信夫などはこれに強く反発し、近代の祖霊信仰はかなり新しいものだと批判しています。
また、本居宣長や平田篤胤(あつたね)を引き、哲学者・磯部忠正(『「無常」の構造』講談社現代新書)の世界の宗教的心性の二つの類型、①父権的・遊牧的・天神的信仰と②母権的・農耕的・大地母神的信仰の知見から、「日本人には、自然から生まれ、自然に生き、自然のなかに死んで帰るという生き方で十分ではないか、というひらきなおった覚悟があるように思われる」。だから、「日本人にとっては、生きるとは自然とともに生きることである。山や河、草や花、鳥や獣、それらはみな人間の仲間である」と言います。ここまで牧歌的ではないにせよ、日本人の心象の底流にあることに間違いないようです。

また、磯部氏の「根源的な生命のリズム」(『日本人の信仰心』講談社現代新書)という概念を紹介し、人は自分で生きているというよりも、何か大きな力によって生かされているという感覚をもっていたと説きます。ただし、それは西洋の絶対神ではないですね。ユダヤ教、キリスト教では人間は絶対神によって作られた存在で「被造物」ですが、日本の古い信仰では『古事記』にあるように神が次々と神々を産むように生まれてくる「被産物」であるという考え方があるというのは、面白いと思いました。
さらに、日本人が目に見える世界の背後に目に見えない世界を想定するのは、そこに「超越」を見ようとしたのではなく、「根源」を見ようとしたとの指摘は、感覚的に納得できます。「万物を貫く"根源的な生命のリズム"と十分に感応し、このリズムに自己の生命を預けるような生き方こそが本当の人間の生ということにもなろう」。生死の連続観や万物一体の自然観は間違いなく日本人の精神性の深部を形づくっているといえます。

その後、本書では仏教の死生観をお釈迦様の縁起、無常、輪廻、解脱、涅槃(ねはん)と続き、生病老死の苦の原因が延々と続く因果生起(十二縁起)であり、その連鎖(輪廻)からの解脱となると、すべてのものが相互につながっているため、すべてのものが涅槃に入るまで真の解脱はあり得ないのであり、いっさいの衆生が覚りに達するまで仏法を説き続けるべきというテーマの、大乗仏教が出現する必然性があるといいます。なんだか、すごい話です。
次に、道元の「仏性」論になり、「一切衆生、悉有仏性(しつうぶっしょう)」の道元の独自の解釈が、「すべての存在は仏性をもつ」のではなく、「すべての存在は仏性である」として、この世界がそのまま涅槃であるという大乗仏教の中心命題を説きます。
また、有名な「心身脱落(自分を捨てる)」によって、「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」とは、この世のすべてのものによって自己を教えられる(自己を知る)ことであるそうです。そうして、道元ほど修行を重んじた僧はなく、日常の行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の一瞬一瞬がすべて修行であると思いなして生きるというのも、ずいぶん厳しい行だと思えます。

本書は、次に生と死の間にあるものを探ろうとして無常観に進みます。『法華経』の信者であった宮沢賢治は、死して人はあたかも星になるかのように宇宙に溶け込んでゆく、という感覚をもっていたといいます。著者は、死後の魂を肯定しようとするかのように説きます。生者と死者を媒介するものとして、それは生死一如の「空」「無」であり、他方、伝統的な「魂」や「いのち」であると結論づけます。

最終章は、人間だけが他の生命と違って、死ぬことができると、始まります。そこから現代の不条理な死の現実に戻り、西田幾多郎の「死の問題を解決するというのが人生の一大事である。死の事実の前には生は泡沫の如くである。死の問題を解決し得て、初めて真に生の意義を悟ることができる」を引きます。著者は、西田の「絶対の力に帰依する」という戦前の日本にたしかにあった心象の境地を羨んでいるかのようです。
そうして最後に紹介されるのが、東大宗教学教授の岸本英夫著『死を見つめる心』(講談社文庫)です。岸本教授は51歳のとき、アメリカでの研究生活のさなかに癌が発見され、余命半年宣言をされながらも、再発や死の恐怖を見つめた10年の記録を残しています。そこでは、こう言われています。
死の恐怖とは、この自分がなくなれば、この世界もなくなってしまうという考えから出ている。すべてが「無」になる。ところが「無」は想像することができないので、そこに恐怖が生まれる。しかし、この世界がなくなるというのは錯覚であって、実際に自分が死んでも世界は存在する。だから、死とは、私がこの世界に別れを告げるだけのことで、自分は宇宙の霊に帰って永遠の休息に入るだけだ、と。
それで安らぎを得られれば、それでいいと佐伯啓思さんは認め、岸本さんが強調する「別れの準備」を重視します。道元の「覚りは一瞬一瞬にある」を引いて、日常の一瞬一瞬の行いにこそ「別れの準備」であると説きます。佐伯さんは、生死が人間の根源的な課題であり、文化のなかに伝えられてきた「目には見えない価値観」にまずは寄りかかり、精神の構えを未来へと拓こうと締め括ります。ちょっと長い「私的な芋づる式読書の備忘録」になりましたが、いろいろと考えさせられる本でした。

さて、ここで松下幸之助の死生観を紹介したいと思います。20歳の成人前に両親と5人の兄姉を失い、その後も戦前において残りの二人の姉と初めて授かったわが子、長男を亡くした経験をもつ経営者の死生観です。弊社・松下理念研究部の川上恒雄によれば、「宇宙根源の力によって与えられた生命力は、肉体の死とともに宇宙根源の力に帰っていく、それだけである、すなわち一から出て、また一に帰ってゆく」というのが松下幸之助の死生観だといいます。先の岸本さんに近い考え方ですが、私も同意します。松下幸之助は戦後、多くの人びとが死や霊魂について誤った見方(来世救済、現世否定)をしていて、それが本来の「繁栄、平和、幸福の実現」を妨げている要因の一つだといいます。

■2021年10月9日
『批評の教室』⇒「解釈共同体」という新たなコミュニティが登場

丸善ジュンク堂による本書の刊行記念オンライン対談を視聴しました。最近の現代批評、文芸評論はじつに射程が広く、小説のテクストだけでなく、映画、演劇、音楽などさまざまな表現から解き明かすものだと感心しました。そこで対談相手の小川公代さん(英文学者/『ケアの倫理とエンパワメント』著者)が紹介されていた小説のアダプテーション(脚色)には、びっくりしました。

1970年代にラテンアメリカで制作された『嵐が丘』では、主人公の身寄りのない孤児だったはずのヒースクリフが、ヒースクリフを拾って育てた旧主人アーンショー氏と不倫相手の黒人の子供であり、混血児として設定されていたそうです(※注)。ポストコロニアル理論という植民地主義や帝国主義にかかわる方法論や問題意識だそうですが、そういった読み替えもありでしょうか。
文学の批評的な解釈は、進化しているようであり、しかも「解釈共同体」というコミュニティをも形づくるようになっていました。可能性は感じます。

※注:日本未公開ですが、アンドレア・アーノルド監督の『ワザリング・ハイツ~嵐が丘~』(2011年)でも、ヒースクリフは黒人として登場。Bunkamuraル・シネマが10月30日(土)に配信上映開始予定とのこと、YouTubeの予告編で、少しだけ雰囲気を鑑賞できます。

『嵐が丘』という小説は英文学ですが、キャサリンの彷徨う霊と、それに翻弄されたヒースクリフの古典的悲劇でした。物語の最後は二人の霊が和解するハッピーエンドだと思いたいところです(ちなみに、『嵐が丘』といえば、イギリスのポップスター、ケイト・ブッシュのデビュー・シングル『嵐が丘』も思い出しますね。明石家さんま司会の往年のバラエティ番組「恋のから騒ぎ」のテーマ曲のイメージが強いですが……)。