町工場のお爺ちゃん~宇宙へ飛んだF3秘話~

ここへはメーカーの開発メンバーさえも知られていない話を凝縮してある。

ある日の土曜日、久しぶりに学校から着替えて出掛けると電話の前で何故か
お爺ちゃんはいつもとは少し違うスラックス姿でいたのを覚えている。でも
電話へ出るのは最初にお祖母ちゃん、それからお爺ちゃんへ受話器を渡す。
「ごめんね、急用が出来たから今夜は遊べない」。
「ご苦労様です、気を付けて」。
お祖母ちゃんはカバンを持たせて玄関先で見送る、折角来たのに・・・。
「ごめんね、今夜は東京球場への用事みたいだから」。
何を言われてもさっぱり記別のつかない私だった・・・。

 ある日、やっと日曜の日中に遊べるようになった。その時にお爺ちゃんは分厚い英語の本を読んでいた。
「お爺ちゃん、英語の本を読めるの?」。
「そうだよ」。
いつもニコニコ笑っている、怒った顔を見たことがない。
「へえ~町工場のお爺ちゃんに英語が必要なの?」。
「仕事でね、話すことは一応出来るけど英語のジョークは苦手だな」。
そうこうしているうちにある白いものを見た、プラモデルではないけど。
「ねえ、お爺ちゃんこれは何?」。
「これかい?」。
発砲スチロール製みたいな模型を取り出して笑顔で孫に語る。
「もしも、カメラが宇宙に行くとしたらどう思う?」。
「これは飛行船の模型なの?」。
「そうだといいね」。
数十年後、その模型がスペース・シャトルの模型になるとは夢にも思って
いない私。自分が見ていた物、お爺ちゃんが手掛けていたものこそ世界
中のカメラ・ファンでベールが知られていなかったニコンF-3 NASA
仕様開発前の貴重時間だった、多くのメーカーの方々さえ存じておらず
僅かに開発コードネームを知る計画参加した一度は定年退職後、再雇用
された世代のエンジニアが微かに知る程度であったという。

ヒストリー上で語るとニコンF-3の市販開始はカタログ上は
1980年扱いだがその前年79年のモスクワ・プレ五輪用より
リリース出来る準備していた。だがご存じの通り幻の五輪で
出遅れになり、次回開催84年ロス五輪は新型でライバルの
キャノン・New-F-1が公式カメラに採用され差が初めて付く。
(報道向けはまだニコンが上な時代)
このNASAモデル開発エピソードは1975年前後というF-3
登場前のF-2シリーズという名機全盛期に開発されていた事。
(アポロ用モデルもニコン自体は開発・リリースしている)。

この時代はFマウントが名実共に世界最強であった、しかし現在の
Zマウントになってどうだろうか?

”町工場のお爺ちゃんなら黙っていなかったと思う”

最愛の孫娘は今なお、現在の機種を見てそう呟く。


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