モノクローム寫眞展 Vol.5 FINAL に寄せて
ノンフィクションとフィクションの境界にて。どうも、神山です。
さて、本日よりneccoにて、モノクローム寫眞展がはじまります。第一回と第四回に参加しましたが、最後ということもあり今回も参加します。
これまで、モノクローム寫眞展では「虚構」「喪失」「恋」といったものをモチーフとしてポートレートを中心に展示していました。具体的には第一回の参加の際には「恋人を喪った安田短歌」に合わせて、顔のないポートレートを。第四回の参加の際には、新写真論への応答という含みを持たせたうえで、オーソドックスなポートレートを展示しました。
これまではカメラを持つことに特権性があったり、写真を手元で現像することに特権性があったりすると考えていました。しかし、自分が写真を始めたころよりも技術は進歩し、人口に膾炙し、誰もが(女性)ポートレートを撮ることができるようになりました。既にそのことの特権性は喪われており、タレントやモデル、アイドルやコスプレイヤーをパッケージングして撮影会と称して(撮影機会でなく)交流を販売する形態も一般的となっています。女性が被写体としてパッケージングされ、時間単価で売られているという状況を加味すると、それはすでに創作=生産活動としての神秘性はなく、概ね消費活動にすぎない状況となっています。
神秘的な行為である生産が高尚で、神秘性のない消費が低俗ということではなく、消費しているだけにも関わらず、何かを生産していると錯覚してしまう構造があります。単に市場の(欲望の)要求に答える写真、あけすけにいえば、ポカリスエットを持った女子高生の写真、夕焼けの砂浜を歩く女性の写真、暗い照明のベッドのうえにいる女性の写真、枚挙に暇がありませんが、色味やら質感やら、人間が見ても明らかに似通ったものが増えており、同じような写真を生成できることが快感となっています。
写真は変更不能なメディアとされています。これはたとえば、写真がついている運転免許証やパスポートの方が、ついていない健康保険証より強い個人の保証能力があるとされていることからも明らかです。しかし、そこに写っている被写体はけして書き換え不能なものではありません。写真を構成する情報=イメージを変えないことと、被写体自身が変化しないことはイコールではありません。被写体は人間で、変化し続ける存在です。そういったイメージの変化を嫌い、モデルAにはイメージA、モデルBにはイメージB、といったような一対一対応で、変化の余地がない捉え方は貧しい。無論、自らすすんで幾年もイメージを変えないような被写体もいるでしょうけれど。
そんななか、モデルによるセルフポートレートの技術も共有されつつあり、かつてはグラビアアイドルが自身のスマホでセクシーショットを撮るのが、自撮りの主流でしたが、いまやストロボ設置からタイマー操作ほか、さまざまな技法によるセルフポートレートが生成されています。
被写体自身でイメージの書き換えを実行し更新できる世界で、ポートレートを撮る意義や意味とは何か、ある固定のイメージを伴った(女性)ポートレートを無条件によいものとしていいのかを考えた一応の結論が今回の作品となりました。自作解題については会期終了後に公開する予定ですが、タイトルとして定めた「post-portrait」は名前でありながら、今後の活動において重要なメルクマールとするつもりです。
イメージの固定ではなく、修正可能性に開かれたポートレートを目指して。
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2021/5/2 モノクローム寫眞展 Vol.5 FINAL が閉幕しました。
ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。
今回の作品は複数の写真のランダム組写真でした。顔と目と手と足の写真、結果として作業をしている手の写真が多くなりました。
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