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新訳果実読書会と競技クイズについて

これは元ネタ、なんだろう・・・?どうも、神山です。

久々に小説の読書会に参加したので、そのメモと考えたことについて。ネタバレはしないので気にせずどうぞ~。参加した読書会はこちらです。

以前はめちゃくちゃ色んな人に推してた作品(いまも古野まほろ作品は小説については全部読んでる)ですね。いまは多様な古野作品に触れてほしいという方向で様々おすすめをしてるので・・・。勿論、天帝果実は大好きな本で、これについては一本論考を書いてたりもします。うみねこと絡めたところからだいぶ攻めてるし、まとめ方がだいぶ雑然としていて、書き直したいと思いながら時間が経ってしまってるやつです。

読書会の中盤に本格ミステリに物語が必要なのか、みたいな話題となっており、本書からは脱線気味でしたが、発言した内容をまとめなおすとこんな感じ。

①天帝果実については、古野まほろにおける本格ミステリ定義(コード)=禁じられたジュリエット参照に基づいて骨組みがされている中に、SFとかファンタジーとか衒学とか、もろもろの情報を組み込んでいることで、本格でありながら奇書というかたちになっていると思う。

②一般論としての本格ミステリについては、綾辻・有栖川デビュー頃などの社会派に対する揺り戻しみたいな文脈もあるし、短編のような登場人物や物語ではなくて事件の構造(トリックやロジック)そのものにフォーカスが当たっているものもある。一方で「事件発生→論理的な解決」という骨組みがカッチリしていることで、その中でのキャラクターや関係性、世界の変化が描きやすいという側面もあるのではないか(僕は書き手じゃないので直観でしかないですが)。

ーーーーーーーここから読書会後に考えたことーーーーーーー

②について考えているなかで、思い出したのがナナマルサンバツ/杉基イクラのこと。というか、(競技)クイズのことでした。ゲンロンカフェのクイズ回(徳久・伊沢・田村)や、「ユリイカ:クイズの世界・予感を飼いならす」のなかで、クイズについて語られる言葉の端々に、本格ミステリに対する「物語の必要性」についてのヒントがあったような気がしています。

ナナマルサンバツにおいて、クイズは勿論知識を問うもの、でありながら、それはコミュニケーションの一形態であり、また個々人の背負った物語だったりします。そしてこれは、漫画の中だからというわけではなく、現実世界でも実際に競技クイズなどのなかでは「そう」らしいです。これと、本格ミステリ=フェアプレイなパズル的要素における物語の登場、似ているのでは・・・?と思った次第。

ざっくりとしか考えていないですが、クイズ作問者とミステリ作家、クイズプレイヤーとミステリ読者はそれぞれ似たような立場にあり、それがノンフィクションの知識をベースとしているか、フィクションにおける論理パズル的要素をベースにしているか(ここが並列の語りになってないのが下手で記事をアップしていなかった)という違いくらいしかないのでは?

ーーーーーーー上記を書いて2週間後に考えたことーーーーーーー

涼宮ハルヒの直観、本格ミステリにおける作者と読者、犯人と探偵、探偵存在、様々なことに言及して去っていった…。あれ、麻耶雄嵩作品みたいなミステリの極北の断片がなかったか・・・・?

別記事で「直観」について書きます・・・。

ではでは


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