見出し画像

舞台創造科における刹那性と永遠性について―我々は何者なのか―筆者再掲版

0.まえがき

本論は、2022年10月に発行した劇場版スタァライトの考察合同誌『舞台創造科3年B組 卒業論文集』に掲載された拙論の、紙幅の都合でカットした部分を含んだフルサイズ版です。

「少女☆歌劇 レヴュースタァライト 舞台奏像劇 遙かなるエルドラド」が本日8月8日発売ということで、記念にアップします。今後適宜修正などもするかもしれませんが、よろしくお願いします。

(開演のブザー)

1.はじめに

『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』とは、ミュージカルとアニメが相互にリンクし合い展開する、新感覚ライブエンターテインメントプロジェクトの総称である(以下、プロジェクト全体を指す場合は「プロジェクト」と呼称する)。

作品としては、2017年9月に舞台第1作『少女☆歌劇 レヴュースタァライト -The LIVE- #1』を上演。2018年7月からTVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、アニメ版)が放送開始、2021年6月に公開された『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、劇場版)にて、アニメシリーズは一応の完結とみなされている。そのほか2018年10月にゲーム『少女☆歌劇レヴュースタァライト Re:LIVE』が配信(2024年9月30日をもってサービスを終了予定)されており、基本的に設定を共有しているが、基本的にそれぞれのメディアでキャラクターやストーリーなどが異なる世界線で展開されている。

主要キャラクターは聖翔音楽学園2年俳優育成科A組99期生の9人、通称九九組である(この9人のうち本論で主に扱うキャラクターは愛城華恋・神楽ひかり・大場ななの3名)。同学園には舞台創造科B組というクラスもあり、舞台・アニメ共に九九組の同級生としてのキャラクターが存在する。同時に“舞台創造科”というフレーズは公式SNSやキャストインタビュー等でプロジェクト自体の観客=ファン=消費者に対しても向けられている。

本論では特に、プロジェクト全体における「舞台少女」と「観客=ファン=消費者」の意味について、恩田陸による小説『六番目の小夜子』(新潮文庫,2001)を補助線として用いながら検討する。

はじめよう。


2.円環・反復・螺旋①アニメ版の繰り返しについて

プロジェクト全体、特にアニメ版、劇場版では様々なループに囚われる舞台少女が描かれる。本章では特に愛城華恋・神楽ひかり・大場ななに着目し、舞台少女がどのようにループに囚われ、打破したのかを振り返る。

アニメ版は、九九組において他の面々と比較してスキルもモチベーションも伴っていないように表現される主人公・愛城華恋が、転校生であり幼少期の親友・神楽ひかりとの「いっしょにスタァライトする」という約束を叶えるため、クラスメイトと競争の末、第100回聖翔祭『戯曲 スタァライト』の主演を射止めるという物語である。

プロジェクトにおけるクラスメイト…九九組間の競争は、各人の演技力や歌唱力の競争によって主役の座を奪いあうという、いわゆる学園部活もののフォーマットとしては描かれない。観客である我々が観測することができるのは、地下劇場と呼ばれる空間で、少女たちが剣や弓や斧といった武器あるいは舞台装置を駆動させながら力量を比べあう戦いである。その戦いは「レヴュー」と呼ばれ、相手の上掛けを落とせば舞台の中央・ポジションゼロに立ち、勝利を得るというルールで行われるもの。このレヴューの結果を積み上げ競う「オーディション」で選ばれた1人がトップスタァとなり、自身が望む舞台=運命の舞台に立つことができる。

この戦いに参加する資格のある、舞台に対する情熱=キラめきを原動力としている少女たちこそが「舞台少女」である。

アニメ版の半ば、大場が「第99回聖翔祭を含む2017年4月17日~2018年5月25日」を繰り返していたことが明らかになる。大場は、オーディションでトップスタァの座を得て、第100回聖翔祭を自身の運命の舞台とするのではなく、何度も何度も、第99回聖翔祭を繰り返すことを選択する。彼女は第99回聖翔祭で浴びたキラめきを忘れられず、その『戯曲 スタァライト』を再演することを選んだのだ。大場によってつくられ、大場だけが記憶を維持している、時間軸の終わりが始まりと接続したこのループを【円環】と名付ける。そして地下劇場の主、オーディションの主催者であるキリンと呼ばれる存在が、このループを打破すべくイレギュラーな存在として登場させたのが、神楽である。

元々、神楽がいない第99期生の8人によって行われていたオーディションに対して、キリンは愛城を除き神楽を加えた新たな8人による戦いを用意していた。しかし、神楽と共にスタァライトする=ダブル主演となるという想いが原動力である愛城は、神楽の初戦に飛び入り参加してしまう。神楽の参加と愛城の飛び入りという2つの誤算は、結果として【円環】を打破することとなる。「変わらないこと」に固執した大場が、イレギュラーな存在の神楽と、イレギュラーな成長をした愛城によって破られる。これにより神楽と愛城はそれぞれ「変化すること」の体現者として描かれた。

アニメ版の終盤では、愛城が飛び入り参加してしまったことによる特別公演・2対2のレヴューデュエットが行われる。その中で愛城・神楽は首席(天堂真矢)・次席(西條クロディーヌ)のコンビを破り、2人でオーディションを勝ち抜いた。二人で第100回聖翔祭の主演を獲得できたと観客含め考えた、その直後、神楽は愛城の上掛けを落とし、たった1人の勝者となり、星のティアラを手に入れる。そして愛城ら九九組の前から姿を消し、砂漠で星を積み続ける「終わらない舞台=神楽のみのスタァライト」を演じ続けていた。

神楽は何故そのような舞台を望んだのか。実は勝ち抜いた舞台少女を運命の舞台に立たせるためのエネルギーは、オーディションに敗れた者たちのキラめきを消費することで生成されていた。たとえば愛城や神楽がそのまま自分たちが第100回聖翔祭のダブル主演を選んでいたら、その他の7人のキラめきは消費され、舞台少女として大切なものを失うこととなっていたとされる。神楽はかつてロンドンで同様のオーディションに参加し敗北したことで、一度キラめきを奪われている。その際の記憶があったため、神楽は唯一人のトップスタァとなって、自分ひとりが犠牲になり、他の舞台少女のキラめきを消耗させないという孤独な舞台を望んだ。この神楽によるキラめきの蓄積(と消費)を繰り返す、神楽だけが運命の舞台に縛られ続けるループを【反復】と名付ける。

【反復】に囚われた神楽を、愛城は忘れることができなかった。そして、「いっしょにスタァライトする」という神楽との約束を叶えるという動機から、愛城は『戯曲 スタァライト』の原典を自ら翻訳し始める。そして「2人の主人公が物語の終わりに離れ離れになる」という幕引きの過去の公演を超え、新たな終幕の形を得た愛城は、神楽の運命の舞台に飛び入り参加する。一度は神楽がレヴューに勝利するものの、新たな終幕を得た愛城はレヴューをアンコール=再生産し、終わったはずの物語の続きを紡ぐ。1対1でのレヴューではありえなかった2人でのポジションゼロ宣言がなされ、レヴューは終わる。神楽による【反復】は、愛城の戯曲の、あるいは世界の再生産により打破されたのである。

―いちど、アニメ版についてまとめよう。

【円環】…すなわち大場ななによる、九九組の未来のキラめきを捧げて作り出した「第99回聖翔祭を含む2017年4月17日~2018年5月25日」のループと、【反復】…すなわち神楽ひかりによる、他8人分のキラめきの代わりに、自身のキラめきを捧げた運命の舞台というループが物語に存在する。この2つのループに対して愛城は「舞台少女は日々進化中」と語る。これは同じ演目であっても舞台は毎回異なり変化しうる、演出や脚本によって展開や幕引きは変わりうるということである。愛城は【円環】【反復】という時間軸を自身に内包しながら、超克し、舞台少女として進化した。これを【螺旋】と名付けよう。

過去の自分とは異なる、拡大再生産された自分自身に向かって進化するという愛城がアニメ版のシナリオの主軸となることで、アニメ版『戯曲 スタァライト』は進行方向を未来とし、過去や現在に拘る二次元方向のループ構造を内包したまま新たなる次元の方向へ物語を展開した。プロジェクトのモチーフを援用すれば、『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』で描かれる輪=【円環:過去に縋る閉じた時間】であり、第100回聖翔祭における砂時計=【反復:現在を変えないために上下運動を繰り返す】はそれぞれ平面のものとして描かれていたが、愛城によってその時間の流れは立体的に立ち上がり、三次元的な【螺旋:未来へ向けて突き進む塔】に変貌した、ということである。
※この表現に対応した図が、卒論集掲載版には載っている。適宜参照されたし。

3.円環・反復・螺旋②劇場版の繰り返しについて

アニメ版において愛城が物語を二次元構造に閉じ込めるループを三次元方向に打破し、【螺旋】としたことで、未来へと物語が続くことを示したが、劇場版では愛城もまた限界に到達する。劇場版における愛城が直面した限界とその打破による更なる前進について本章では検討する。

劇場版では、九九組が高校3年生に進級し最上級生として新入生育成に携わる傍ら、卒業後の進路について進学や劇団所属の希望を選択するところから物語は始まる。進路希望提出後、九九組は劇団見学へ向かう途中、オーディションではなく「wi(l)d-screen baroque」(以下、ワイルドスクリーンバロック)と呼ばれる新たな戦いに巻き込まれる。劇場版は九九組にとっては9人が道を分かつための通過儀礼としてのワイルドスクリーンバロックを巡る物語であり、悲願であった「第100回聖翔祭 神楽とダブル主演でのスタァライト」の上演を終えた愛城の、目指すべき未来についての物語である。

舞台少女にとっての舞台とは演じ始めるまでは目標であっても、幕が上がり、千秋楽を迎えてしまえば終わるものである。それぞれの舞台は通過点のひとつでしかない。大場はワイルドスクリーンバロックにおける「皆殺しのレヴュー」にて、舞台少女の死を愛城と神楽以外の九九組に提示した。九九組の9人の縁は、彼女たちの舞台人生のなかでたった3年間しかない、かけがえのない学園生活で育まれた関係性であり、オーディションは限られた時間・空間で最もキラめくトップスタァは誰なのかを決めるものである。

その3年間が終わったとしても、舞台少女は舞台から降りられず、舞台人として生きてゆかねばならない。この構造の未来では、誰が一番優秀なのか、正しいのか、完成なのかといった階級は崩れ、それぞれが別々に巣立った先で生きていくことになる。プロジェクトにおけるそれぞれの物語が階級の頂点を目指すものではないことは、第101回聖翔祭の『戯曲 スタァライト』が「今こそ塔を降りるとき」というセリフから物語が展開することからも読み取れるだろう。ワイルドスクリーンバロックにおけるレヴューは、舞台少女たちへの卒業証書授与式として機能している。

―愛城と神楽を巡る物語はどのように展開していくのか。

劇場版では【円環】【反復】を進化させた愛城の【螺旋】が、目的の達成により矮小化し、未来への進行が停止してしまったことが暗に明に指摘され続ける。愛城が求めているのは「神楽とのスタァライト」だった。TVアニメ版の終盤、愛城は神楽に向けて「舞台少女は舞台に生かされている。私にとって舞台はひかりちゃん。ひかりちゃんがいないと私の舞台は始まらないの。ひかりちゃんがいなくちゃダメなの。」と宣言し、その目標はTVアニメの完結により達成された。その未来に配置される劇場版で、愛城が第101回聖翔祭でも第100回と同様に神楽との約束の舞台である『戯曲 スタァライト』を求めることは、大場が第99回で【円環】に囚われたこと、あるいは、神楽が他の舞台少女のキラめきを奪わないため【反復】に囚われたことと同様であり、新たな変革のない選択であった

しかし、劇場版で神楽はロンドンへ再度留学し、愛城の生活の中から姿を消してしまう。神楽なき、2人のスタァライトなき世界で舞台少女として、舞台人として生きるとはどういうことなのかを突きつけられた結果、アニメ版では語られなかった愛城の心中が語られる。そのなかで、これまでの『愛城華恋』は神楽との約束を守るために演じ続けた役だったと表現される。目標であり精神的支柱である神楽との『戯曲 スタァライト』を失った愛城は日々の生活のなかで演技し続けることを選べなくなった。即ち舞台少女として死んでしまう。ワイルドスクリーンバロックで同じ舞台に呼び戻された神楽は、舞台少女として死んだ愛城を迎えにゆく。劇場版の終盤、過去の想いを燃料とした愛城は約束の舞台に縛られず、次の舞台へ進むことを選び取り、神楽と再度対峙する。そして、新たな舞台少女・『愛城華恋』と『神楽ひかり』は、一度止まった【螺旋】の回転を未来へと進めるのである。

アニメ版から連なる劇場版は九九組の卒業をテーマに扱い、これまで自分を縛り付けていた拘りや固定観念から解放されても舞台に立てること=「舞台少女」は終わらない、ことを描いている。神楽を巡る愛城の死と再生産は「舞台少女」が次の舞台へ行くことを示した。「舞台少女」は終わらず、舞台人として先へと進んでゆく。

―では、「舞台創造科」は終わるのか。

「舞台少女」と「舞台創造科」について語るため、一度プロジェクトの外側から、学校を舞台とする作品における2つの時間の流れについて検討する。学園モノのフィクション作品、コンテンツは古今東西様々あるが、その中でも特に示し方が顕著な作品でありながらも、ゼロ年代以降という同時代性やアニメや映画といった同一の映像メディアから離れた対象として小説『六番目の小夜子』を参照する。

4.学園モノにおける時間の二重性―『六番目の小夜子』を用いて

『六番目の小夜子』は、作家・恩田陸が1992年に発表したデビュー作であり、ミステリー、ホラー、ファンタジーの要素を含んでいる青春小説である。舞台となる高校には”サヨコ伝説”という奇妙なゲームが受け継がれており、3年に1度、サヨコに指定された生徒は、その年をサヨコと気づかれずにゲームを完遂する必要がある。ゲームのコンセプトは今でいうところの変わった人狼ゲームのようなものだろうか。その高校に津村沙世子(つむら さよこ)という謎めいた生徒が転校してくるところから、物語は始まる。1年間、多くの登場人物が登場し、青春の様々な場面が描写されるが、特に重要な役割をもったキャラクターは3名である。ひとりは沙世子であり、そのほかに主人公である関根秋(せきね しゅう)と古株のクラス担任である黒川である。

秋は探偵役として、ミステリーとしての『六番目の小夜子』にアプローチするキャラクターである。今年のゲームの正体について過去の”サヨコ伝説”や目の前で展開されていく事件・事象を調査、推理し、転校してきた津村沙世子がこのゲームを終わらせる為に行動している犯人だと結論を導き出す。確かに、津村は何者かの手引きによって”サヨコ伝説”を知り転校を決心し、当初のサヨコに成り代わり今回のゲームを引き受けた存在ではあったが、動機は秋が推理した「ゲームを終わらせること」ではなく、彼女が今回のゲームをより楽しむためだった。つまり、秋は探偵として物語に幕を下ろせていない。一方で、津村も単独犯ではなく、彼女をゲームに誘った者がいる。ここで前述の3人目、黒川がクローズアップされる。彼は生徒間でのサヨコ引継ぎ失敗などに対処し、キーアイテムやサヨコ伝説を次の世代へ伝える役割をもち、津村にサヨコの物語を送ったことが暗に示される。彼が”サヨコ伝説”の黒幕ともいえる存在だったのである。単年のサヨコのゲームにはそれぞれ犯人=サヨコが存在するが、その裏で複数の世代にまたがるサヨコのゲームが存在し、そこにはゲームマスター=黒川が介在するといえる。

生徒と学校の時間のスケールの違いを扱った物語は数多くある。小説であれば、綾辻行人『Another』や、はやみねかおる『亡霊(ゴースト)は夜歩く』、米澤穂信の古典部シリーズ、特に第一作である『氷菓』が挙げられる。それぞれの作品で、学校という場における生徒は入れ替わり続ける刹那的な存在として描かれる。一方で校舎、校則、伝統、伝説、七不思議、あるいは教師といったものは生徒が在学する期間を超えて数年、十数年と学校のなかで継承・継続されていく永遠性をもつ存在として描かれる。『六番目の小夜子』をはじめ、これらの作品は、刹那性と永遠性の対比をテーマとし、ふたつの時間の流れのなかで、登場人物が発生する事件や事象に対して調査・推理・解決に挑むミステリーである。登場人物による解決が、作品によっては今後の学校の在り方に影響を与え、未来に同様の問題が発生しないということもあれば、その学年については事件が解決されるものの、未来において連続性をもった事件として継続してしまうものもある。

『六番目の小夜子』はあらすじで述べたように、黒川は存在し続け、”サヨコ伝説”は解決されていない。黒川は確かに”サヨコ伝説”の終了を防ぎ未来へ継承するゲームマスターとしての役割を担っている。では、転勤や退職により黒川が居なくなれば、サヨコ伝説は終わるのだろうか。

否、サヨコ伝説は終わらない。このことは、物語の頭と終わりに示唆されている。真の黒幕に繋がる、物語の最初と最後に現れる文章を引用する。

彼らの見掛けの姿は、古びて色彩にも乏しい。もはや呼吸をしていないのではないかと思えるほどだ。しかし、そのしなびた皮膚の下には、いつも新しい、温かい血液が豊かに波打っているのだった。彼らの足元には、やや水量を増したそっけない川が流れている。そのせいか、彼らは空から見ると一本の細い橋につながれた島に見えた。彼らはいつもその場所にいて、永い夢を見続けている小さな要塞であり、帝国であった。彼らはその場所にうずくまり、『彼女』を待っているのだ。ずっと前から。そして今も。顔も知らず、名前も知らない、まだ見ぬ『彼女』を。

『六番目の小夜子』より

引用文中の「彼ら」こそが真の黒幕である。前半部のしなびた皮膚や血液、水といった喩えから、樹木のようである。舞台となる高校には樹齢100年を超える桜があることから、この桜こそが黒幕にも思えるだろう。しかし、物語の最中にこの木は破壊されてしまう。引用文を意識して物語を読み進めると、後半部の島や要塞といった描写がある。これが暗示しているのは、かつて城跡だった場所に建っており、四方を崖に囲まれた、この”校舎=学校”である。翻って、前半の「血液」が在学中の生徒のことであることも見えてくるだろう。

サヨコ伝説というゲームが永遠に続行されることを目的として、静かに蠢き、キャラクターに影響を与え続けている真の黒幕は”学校”であった。犯人が人間ではなく、非生物の”学校”であること。これが『六番目の小夜子』のホラー的、ファンタジー的な雰囲気を理論的に支える真相である。"学校"はその磁場を維持するために、入学や進級した生徒の学園生活をドラマティックなものに味付けし、生徒がエネルギーを発しながら青春を送れるようにはたらきかけている存在だと強調される。終盤では”学校”の磁場から生徒が解き放たれ、憑き物が落ちていくような描写もある。生徒についてそうならば、教師である黒川というゲームマスターについても、同様にひとりがいなくなっても、誰か別の者が選出されるのだろう。そうしてサヨコ伝説は継続していくのだ。

『六番目の小夜子』についてまとめよう。これは学園生活の刹那性と学校の永遠性、その二つの時間の流れの違いを、単なる青春小説としてだけでなく、ホラーやファンタジー、ミステリーの諸要素によって引き立てている作品である。要素について気付いていても、気付かなくても、この作品は面白く読めるだろう。現実ではかたちは変わっていくかもしれないが、学校は単なる教育機関というだけではない、青春の触媒としても残り続けるだろう。生徒たちの「いま、ここ」にしかない煌めきを浴びてもよいし、その生徒たちの煌めきを期待している"学校"のささやきに耳を澄ませてもよい。読者がページをめくる限り何度でも物語は繰り返されていく。

ーそして、舞台は今一度『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』へ戻る。

伝統ある学校の学園祭で披露される演劇とその演目が主題である『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』プロジェクトにおいても同様のことがいえる。【円環】や【反復】といった九九組の問題こそ愛城が【螺旋】によって解決したものの、聖翔音楽学園に地下劇場は存在し続けており、今後も再び個別のレヴューやオーディションが開かれる可能性がある。プロジェクトは舞台少女の刹那性と、戯曲や伝統ある学校といった存在の永続性の対比を主軸とし駆動する物語なのである。

―ようやく、準備が整った。

本論は『舞台創造科における刹那性と永遠性について―我々は何者なのか―』という題名である。ここまでは、あくまで舞台少女に焦点を当てた論を展開した。読者あるいは観客である我々”舞台創造科”は、どのような存在としてプロジェクトと係わっているのだろうか。

5.舞台創造科と我々

再三となるが、プロジェクトにおいて観客=ファン=消費者は“舞台創造科”と呼ばれている。作中にて九九組が所属する俳優育成科A組の同級生であり、舞台装置や脚本を手掛けている舞台創造科B組と同名である。また、役割としては地下劇場の管理人たるキリンも舞台少女の立つ空間・舞台を用意する役割を担っている者であった。さらに劇場版では舞台少女の燃料を表現するモノとして「トマト」が追加される。舞台少女がトマトを口にし、ときに潰している場面が描かれ、トマトは舞台少女たちのエネルギー源として示される。劇場版ではキリンがトマト(と同属性と思われる野菜)に変化するシーンも描かれる。舞台創造科、キリン、トマト。これらはどれも舞台少女の立つ舞台を駆動させる助けになるものとして表現されている。

ここで、上記の3つには次のような差があるように劇中で表現されていると仮定する。
・キリン:コンテンツが拡大することそれ自体を肯定し、その拡大再生産のためには労を惜しまず延々と燃料をくべる存在。資本。
・トマト:コンテンツを消費するユーザーの熱意。演者によって消費される。個々の差異は区別されないが、個々に消費される燃料。生命の代替品。
・舞台創造科:キリンともトマトとも異なる、演者と相互に価値を供給しあう並列の存在。

作中の舞台創造科B組は作劇上、俳優育成科A組とともに卒業し、それぞれの目標に向かって進路選択をしているだろう。一方でファンとして舞台創造科たる我々はキャラクターたちが卒業し進路を決めてしまったにもかかわらず、こうして語り続けている。即ち、キャラクターたちとともに卒業できなかった「舞台創造科」なのだ。では我々とは、九九組・プロジェクトに対して、どういった存在と考えられるだろうか。

振り返れば、 首席はどんなに強大に描かれていても、欲深き人間だった。主人公は奇跡の力を持つ存在ではなく、ただ努力をし、研鑽を積んだ人間だった。エリート校のトップ学生たちの話ではある一方でただの女子学生たちの物語だった。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』はバトルロイヤルやループといった要素を含んでいるものの、単なるスポ根青春物語である。高校生という戻れない「いま、ここ」にいるからこそ立ち現れるキラめき、そこでの競争と表彰は、武器を手にした戦いに依らずともよかった。制作陣によってそういった表現が選ばれている一方、物語内部で展開される論理には観客たる我々の欲望が組み込まれている。観客が存在するからこそ、壮大で残酷で破壊的に見えるステージ、レヴュー、オーディションやワイルドスクリーンバロックが顕現する、と受けとれるような構造となっている。そのプロジェクトの論理に乗るのであれば、九九組が、舞台少女が痛々しい表現を受けることとなったことの一端に、観客の責任があるといえるだろう。

そのような観客の罪について、責任を九九組が卒業したあとも引き継ぐことを考えるために、『六番目の小夜子』に立ち戻りたい。前述のとおり『六番目の小夜子』は学校生活の刹那性と学校の永遠性、その2つの時間の流れの違いを、生徒・教師・学校という複数の視点から捉えている青春小説だった。そして『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』もまた、舞台少女の刹那性と戯曲や舞台といった存在の永続性が対比され駆動する青春物語である。

このとき我々は刹那性と永続性、どちらに立っているだろうか。本来俳優育成科A組とともに卒業する舞台創造科B組であれば、ともに同じ時間軸の中で生きているのだから、刹那性に属するだろう。では、舞台やゲームといった他のメディア展開が終わったあとも存在し続けるだろう我々はいったい何者なのか。我々は作品が終わってもプロジェクトについて考察し言明する。つまり、戯曲や舞台といった存在と同じく永続性に属していると言える。

我々は『六番目の小夜子』における「学校」、青春が永続することを目的として、キャラクターに影響を与え続ける黒幕と似た存在なのだ。ここに舞台少女=刹那性、舞台創造科B組/戯曲・舞台=永続性=【我々】 という対比を置く。この【我々】を一度便宜的に【生ける屍】と名付ける。これは資本的に燃料を与えるキリンでも、個々に燃料となるトマトでもなければ、ともに卒業していく舞台創造科B組とも異なる道である。

俳優育成科だけが舞台人なのではなく、舞台創造科も舞台を成立させる主体である。作中の舞台創造科B組は九九組が属する俳優育成科A組とともに卒業し、卒業後の未来を生きていく。しかし、作品外の「舞台創造科」は、卒業できず【生ける屍】へと変わってしまう。キリン=資本は週ごとに変わる特典で観客を動員し、劇場公開期間を延長させることで、幾度も戦いのステージに彼女たちを引き戻す。舞台創造科だった者=【生ける屍】は他作品や社会情勢からの影響について考察し研究し、作中に散りばめられた諸要素の解題をすることで世界に彼女たちを忘却させまいと徘徊する。

6.我々とはなにか(卒論集においては「おわりに」)

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は、舞台少女の卒業を描くと同時に、卒業できない観客=ファン=消費者→我々=【生ける屍】の存在を浮き彫りにした。ともすれば我々は終わったコンテンツにしがみつき、他作品とのコラボや10年後の続編を祈るような惨めな存在にも思われるかもしれない。しかし我々【生ける屍】たちが『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』について語り伝えるとき、既に終わった物語であっても、新たなキラめきが生まれることがあるだろう。かつて愛城と神楽がともに見た舞台『戯曲 スタァライト』に感銘を受け、自分たちのスタァライトを聖翔祭やレヴューで演じたように。

だからこそ物語が終わったあと、【生ける屍】となった我々は作品について考えを巡らせ、考察・研究し、論理を飛躍させ、批評という形で提示し、キラめきを再生産する必要がある。

―我々自身もまた再生産し、改めて名付け直そう。
【生ける屍】とは、批評家のことである。

批評によって、過去の作品は未来の作品と接続する。ひとつの作品を見返し続けるだけでは大場と同じく【円環】に囚われる。作品の考察や二次創作へ是々非々の判断を与え続けるだけでは神楽と同じく【反復】に囚われる。批評はコンテンツや作品の背景や枠組みを意識し、理論に基づきながら行われる。同じ作品を扱っていても批評家によって個別の、一意でないオルタナティブな視点が向けられる。

―すなわち、批評は愛城の【螺旋】と同格の行為である。

プロジェクトの外側にも多くの作品がある。ときに我々は別の作品にキラめきを幻視するだろう。幻視したキラめきを基に『少女☆歌劇レヴュースタァライト』を語り継ぐことで、我々もまた何処へだって夢を宿し行けるのである。


7.幕間、あるいはあとがき

以上が、『舞台創造科3年B組 卒業論文集』(企画・さぼてんぐ、2022.10.10発行)に掲載された、舞台少女と観客のいくつもの時間を巡る、ぼくの卒業論文に多少の追記などを施した文章である。ここまでお読みいただいたことに大変感謝する。

卒業論文集というタイトルで、体裁も論文的なまとまりとなっているものの、考察・感想が主な収録作である。しかし、お読みいただければわかる通り、ぼくの文章は演出やモチーフの解題といった考察とも、エビデンスベースの実証的な研究とも異なる。アニメ版・劇場版の中にある繰り返される時間の構造を取り出し検討したのち、いちど『六番目の小夜子』を介して青春小説における子供と大人の時間の流れ方の違いに言及した上で、そういった作中時間から独立している観客=我々の時間とはどういったものなのかを問う、という構成になっている。

結果、極めてぼくの主観や経験を基に少女☆歌劇レヴュースタァライトに向き合った文章、批評となっている。批評という手段を用いた理由は、論中にもある通り、作品に囚われ続けず、未来へ、世界へ繋がる【螺旋】と重ねられるからに他ならない。ぼくの批評を読んで、違う作品に、自身の生活に、キラめきを見つけることに喜びを感じていただけたらと思う。

世界は、あなたの再生産を、ずっと待っている。


卒論提出後、結婚含め様々環境の変化があったことで、あまりスタァライトについて深入りしておらず、ゲーム版はスタリラを踏まえた文章について書ききれていない。アイデアとしては、『エンドレスエイトの驚愕-ハルヒ@人間原理を考える』(三浦俊彦、春秋社、2018年)を絡め、キャラクターの演者の時間軸の異なり方や、繰り返される再上演による舞台創造科の【円環】への共犯化、あるいはここに書いていないループの種類としての【輪廻】など、様々な形で用いられる「繰り返し」構造に着目したスタァライト論として本論を再生産したかった。いまはその気持ちだけをここに記して、筆を置くこととする。

エルドラドの発売日ということもありましたが、あわせてポップアップしてきた上の文章を読んで、バラバラにアップロードされていた文章を、改めて自分のnoteにも上げないと、と駆られたのも理由のひとつです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?