(Re:)三十一文字の返信―『#恋人を喪った安田短歌』の狂気と優しさ
1.恋人を喪った安田短歌とは何か
『恋人を喪った安田短歌』(以下、安田短歌)とは、映画『シン・ゴジラ』[i]に登場する安田龍彦文部科学省研究振興局基礎研究振興課課長(以下、安田)の恋人が作中時系列の2016年11月7日午後18時30分[ii]に巨大不明生物・通称ゴジラが口から放出した放射線流に巻き込まれて死亡したこと(太字・架空設定)に立脚し、作中時系列・世界線の前後内外を問わずに、安田や恋人、同僚、ゴジラ、街並などについて様々な視点から詠まれた短歌の総称である。
発足は2016年9月19日。この数日前から始まっていた「[……]安田でどういう夢[iii]が書けるかわからん」「ゴジラの2回目の上陸のときに光線で焼かれてしまった安田の恋人とか…」というツイッターユーザー同士のやりとりから始まったツイートまとめ『安田課長♡恋人喪って♡』[iv]や、筆者が参加するなどして架空設定を更に深めたまとめ『安田さんの幸せな日々と絶望』[v]を基盤としている。後者の終盤、invert のvol.2、3(fromH)にも参加していたRyota[vi]氏が作った『#恋人を喪った安田短歌』というハッシュタグが始まりだった。本論を執筆しているのは2017年1月だが、現在でもこのハッシュタグに短歌を載せたツイートは呟かれており、その合計は2000首以上となっている。
それぞれの短歌の詠み手(以下、安田タンカラー)は他の安田タンカラーの作品を再編したアンソロジーや自薦連作の作成、自身が開いた個展での展示、文学フリマでの歌集や短歌を載せた名刺(通称:名刺爆弾)の配布などを行っており、ツイッターのタイムライン上だけではなく、複数の舞台・媒体を用いて安田短歌の普及に努めている(はず)。
安田短歌の発端となった「安田の恋人が放射熱線にて死亡した」という説は、巨大不明生物特設災害対策本部(以下、巨災対)が立川に再集合した場面の、事務局長である矢口蘭堂による訓示のシーンの安田の仕草、表情を根拠としている。具体的には、安田ひとりだけが身体を矢口に真っ直ぐ向けていないように見えること[vii]、アップで映った目が涙に濡れているように見えること[viii]、この二点によって「誰か大切な人を亡くしてしまったのでは」「それは恋人だったのではないか」という(極めて恣意的な)読解に基づいている。
安田短歌は「恋人の存在」「その喪失」という二重の架空設定の下にある。寡作な詠み手も含めれば30人以上存在が確認されている安田タンカラーは「放射熱線での恋人の死」という概念を共有しているのみである。それ以外はどういった設定であっても基本的に安田短歌として認識される[ix]。ここでは、共通の世界観よりも短歌の形式に則っているかどうかの方が重要なものになっている。
大量の安田短歌によって作られたいくつもの世界は、恋人が喪われたことのみが確定事項であり、それ以前・それ以後については(正史としてのシン・ゴジラ本編はあるが)、ゆらぎがある。この「#恋人を喪った安田短歌」に規定された全ての世界における安田は「恋人の喪失」を回避できない。同時に短歌によって安田は恋人への想いを言語化されることができる[x]。その言語化された想い、詠まれた短歌たちは、届かなかった「恋人から安田への遺言、すなわち遺書」への返信として機能しうるのではないだろうか。
まとめよう。「遺書」は存在しないが、「遺書への返信」が存在する。その返信としての短歌がどういったものなのかを考えることが、本論で行う「遺書」へのアプローチである。
※本論が掲載されたinvert vol.4のテーマは「遺書」である。
2.安田龍彦とは何か
シン・ゴジラ本編における安田はどういったキャラクターだったろうか。作品中における立ち位置や、他のキャラクターとの関連性などについて、『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』付録の完成台本における台詞から考える。
完成台本に載っている台詞をまとめたのが以下の台詞表である。可能な限り作中時系列も記載した。
これを見ると、恋人を喪う以前、つまり11月7日以前の安田の台詞の多くは、「確かに」「ですね」「だから」など前の人の発言を受けながら状況を説明している。対して立川移動の後は、シーンの口火を切ったり、自ら意見を発したり、誰かに指示を出したりするなど自発的な発言が多くなっている。一度だけある「なので」についても、自分の直前の発言を補強する台詞である。
安田が最初に登場するのは巨災対集合時、「冗談ポイです、尾頭さん~」までの2分程度の間に5回ほど発言している、それぞれの台詞は長くても五秒程度であり、合計で30秒に満たない。全てを筆者が読み上げたところ、その合計時間は2分程度だった(勿論、台詞はなくとも画面上に登場しているところは数多くあり、この時間はあくまで参考程度である)。
※※他のキャラクターのセリフ量や時間と印象を比べてもよかったかもしれない。
ここまでは台本の上での安田について見てきた。一方で、『シン・ゴジラ』は特撮映画である。そこには役者がおり、その身体と演技を通して我々はキャラクターを読み取る。安田を演じた高橋一生はユリイカ2016年12月臨時増刊号 総特集Ω『シン・ゴジラ』とはなにか(以下、ユリイカ『シン・ゴジラ』) のインタビュー[xi]にて、次のように発言している。
元々の設定として恋人がいるというものはないものの、安田タンカラーによる、大切な人を喪ったのではという想像は、高橋の演技を読み取ったものだった。
他の登場人物との絡みはどうなっているだろう。先程の表には安田の台詞の直前直後に誰が発言したのかも記載している。これを見ると、尾頭が8回、森が7回、矢口が6回、前後に発言していることがわかる。
前後する回数も最多であり、作中のやりとりで印象深いのも尾頭との絡みだろう。彼女とのつながりについて、ユリイカ『シン・ゴジラ』にて石田美紀は次のように述べる。
引用部の後、石田は、シン・ゴジラが恋愛描写をしなかったことによる空白の存在が、たとえば実力者である尾頭のかっこよさを際立たせていたり、彼女ないし他キャラクターの私的な側面を観覧者各々が想像を膨らませる機会になったりする原因であり、特に恋愛描写にうんざりしている女性観客の心を掴んだことを評価すべきと続け、女性向けコンテンツが本作を受けてどう変化していくのか、ということに触れ文章を結ぶ。
安田と尾頭(あるいは森、矢口でもいいだろう)。それぞれについて画面上の配置あるいはカットの順などから、様々な想像の余地が作られている。しかしそれはそれぞれのキャラクターの距離が均等であり組み変えられるというわけではない。その中でもグラデーションがあり、その偏りを意識しつつ我々は物語を走らせることができる、本編と二次創作のバランスを保ちやすい環境となっているのだ。
3.物語における短歌とは何か
ここでは『シン・ゴジラ』の翌月に公開された新海誠監督作品『君の名は。』[xii]を通して、「短歌」と「喪われた恋人」のつながりを見出す。『君の名は。』に登場する短歌(和歌)としては次のものが挙げられる。なお、本編では、「誰そ彼」から「黄昏時」の説明が始まる。
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ
この和歌は万葉集10巻2240番のものであり、内容としては「あれは誰、と私の名前を聞かないでください。9月(旧暦)の露に濡れながらあなたを待つ私のことを」という女性視点のもの。ちなみにこの直後、三葉は自分のノートに書かれた「お前は誰だ?」という文字を見つけることとなる。
また、新海が本作のモチーフにした[xiii]和歌が次のものである。
思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを
この和歌は古今和歌集12巻552番のものであり、内容は「あの人のことを思いながら眠りについたから夢に出てきたのであろうか。夢と知っていたなら目を覚まさなかったものを」というものである。
これは偶然だが、2017年センター試験国語で出題された古文の擬古物語の和歌にも「たそがれ」が含まれている。
露かかる 心もはかな たそかれに ほの見し宿の 花の夕顔
世をそむく 葎の宿の あやしきに 見しやいかなる 花の夕顔
の二首である。これらはそれぞれ「(涙のような)露が降りかかる心もはかなくとりとめない。たそがれ時にほのかに見た家に咲く花である夕顔(のような美しいあなた)よ」、「(我が家は)俗世を捨てて(出家した者が住んで)いる葎[xiv]の生い茂った家で粗末な家であるのにどのような夕顔の花を見たというのですか」と訳される[xv]。貴公子が美し女性を見て恋に落ちたという平安時代らしさのある歌である。このように和歌(短歌)は古来より、恋文として用いられており、それが相手によって一度拒否されるという構造は、擬古物語の一つのパターンであり、大元である『源氏物語』から連なる形式でもある。
※※※ぶっちゃけしなくてよかった解説、でも執筆時あまりにもタイムリーだったので陰謀論的に入れました。センター試験の作問時期的に流行ってるからということはなく、全くの偶然です。
『君の名は。』は最終的に瀧と三葉が出会うことができる物語である。二人は幾度も繰り返されたやり直しの中で、奇跡を掴むことができた。それは二人がラストシーンで出会ったことが起点となり、(2400年以上前からの)過去の物語が編まれていったとも読み取れる。本作はその過程が切り貼りされ、ひとつながりになるように再構成された作品と認識することもできるだろう[xvi]。
三葉の父であり町長でもある宮水俊樹と、母である宮水二葉の夫婦について付記しておこう。本編でも一瞬、俊樹の経歴が民俗学者→神主→町長と雑誌記事で示されるシーンが入っているが、その詳細は不明なまま、三葉の視点では母の死ののち家を捨てた父親として描かれる[xvii]。本編にシナリオ協力として参加した加納新太が執筆した『君の名は。Another side:Earthbound』に、彼らの過去の物語が収録されている。
ここでは、本編では具体的に描かれなかった集団避難を行えた答え合わせが行われている。一度は三葉の進言を受け入れなかった俊樹は何故、二度目の邂逅で受け入れたのか。最初は瀧の入った三葉であり、二度目は三葉自身だったから、という理由は本編でも示されている。しかし、それ以上に喪われた妻との縁(むすび)が原動力となっていたのだった。
池田純一はユリイカ『シン・ゴジラ』にて『君の名は。』と和歌との関連性について、次のように記している。
ここで池田は和歌というかたちに着目して展開しているが、文のかたちはそれだけではなく、本編中三葉と瀧はノートに宛て書きや日記・スケジュールアプリの入力、相手や自分の肉体へのペン書きで意思疎通をする。それらもまた対話ではなく、一方的な手紙の投函行為である。
短歌によって、手紙によって、一方通行な想いを伝えることは、それが高校生であれ、平安の貴公子であれ、行なわれてきたことであり、恋人を喪った安田短歌もまた、これらと同様の系譜に置くことが可能ではないだろうか。
4.恋人を喪った安田短歌とは何か
瀧は何度も喪った(だろう)三葉を、三葉自身の力も借りることによって救い、出会うことができた。俊樹は本編外で紡がれた物語にて、喪った妻と三葉を介して出会うことができた。
しかし、安田はそうすることができない。あくまで「恋人を喪った安田」コンテンツの中でしか、思いを馳せることができない。なぜならば、恋人も喪失も架空であり、本編に登場することはできず、本編外の根拠のある物語も存在しないからである。
ここまで繰り返し用いられた「架空」とは「空に架ける」と読み下せ、何もないところ=空(カラ)に橋など梯子などを渡すことはできないということから、想像して作られたもの、という意味となる。
しかし、これを空(ソラ)と読めば。何もない空(カラ)ではなく、想い人がいる空(ソラ)。作中時系列内外や原作設定との整合性の有無を問わない多種多様な短歌が同時に存在するのは、安田が恋人にアクセスするための祈りだからではないだろうか。
存在しえない遺書(メッセージ)を宛先に届かせ、その返信(リプライ)を担う郵便局となる二次創作は、反実仮想は、物語の外に干渉できないキャラクターの存在を脅かす脅威である一方、無限の救済の可能性を示唆する福音でもある。今後も恋人を喪った安田短歌は詠まれ、編まれ、拡がり続けるのだろう。
『invert vol.4』2017年 所収論考を改稿
[i] 2016年7月29日公開。東宝製作のゴジラシリーズの第29作。総監督・脚本:庵野秀明、監督・特技監督:樋口真嗣
[ii] 『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』(株式会社カラー、2016年)334―335頁、「時間香盤表」より
[iii] 夢小説のこと。「二次創作小説において、原作に存在しないキャラクター=『夢主』を挿入し、それを中心に物語を展開する技法」とぐるぐる@suzushi211 は定義した。(『安田龍彦は喪われた恋人の夢を見るか?』(安田短歌会、2017年)所収、「『喪われた安田の恋人』という任意のn」より)
[iv]2016年9月17日
[v]2016年9月19日
[vi] 『invert vol.2』(2014年)所収「対談・セーラーゾンビをどう観るか!?」、『invert vol.3』(2016年)所収「映画と観客」に今西亮太の名前で参加
[vii] 『シン・ゴジラ』パンフレット、22頁
[viii] 『シン・ゴジラ』予告、35秒より
[ix] 「#恋人を喪った安田短歌」まとめTogetterの更新を行っているのは筆者だが、五七五七七の構造を逸脱しているものはまとめる際に除外している
[x] 多くの安田短歌が、安田龍彦本人が詠んだ短歌ではなく、安田の心情や風景を短歌として書き起こしたものであることからこのように記した
[xi]『ユリイカ2016年12月臨時増刊号 総特集Ω『シン・ゴジラ』とはなにか』(2016年、青土社)21―29頁「安田のスタイル」のこと
[xii] 2016年8月26日公開。監督:新海誠
[xiii] 『君の名は。』公式サイト、監督インタビューより
[xiv] むぐら。生い茂って藪のようになる、つる草の総称
[xv] 東進ドットコム、センター試験解答速報、2017年大学入試センター試験 解説〈古典〉より。(現在はリンク切れ)
[xvi] 東浩紀@hazuma及び仲山ひふみ@sensualempireのやりとりがその一端を示している
[xvii] 『小説 君の名は。』150頁
と、2017年fromH発刊のinvert vol.4に掲載したエッセイを、表記直しやちょっとしたコメントを入れて再掲した。尚、今年で安田短歌は6周年だ。だからといって特に何かイベントをするわけでもないが、今年もまた少し安田短歌が増え、シン・ウルトラマンと重ねた作品なども生まれていくだろう。
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