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初めて老いと直面した日

空に向かって力いっぱい放ったボールは、いつの間にか最高到達点を過ぎ落下に転じていた。こうなっては、重力に抗うことはできず、下降し続けるしかない。自らの力では再浮上できないのだ。
物理では当たり前のことだが、自分の身体に起こっているのだと理解するのにしばらく時間がかかった。

『まあ、老化ですからね。』、と整形外科医が言う。
『え、治す方法はないんですか?』
『特にないですね。痛くなったら休んでください。もっとひどくなったら手術して人工関節を入れるという方法もありますが、今はそこまででもないんで。』

私はとっさに診療室の壁際に立っている看護師の女性の方に視線をやって反応を伺うが、その表情には全く変化がない。今の会話にはひとつもおかしな点はなかったようだ。

いやいや、おかしいだろう。だって、病院というのは体の不調を治すためにあるんだから。これまでは、内科では解熱剤や胃腸薬、抗生物質などが処方されて不調は改善され、外科では傷が縫合され骨折部位の固定とリハビリにより腕は元通りに動くようになった。だから、ここ数年の股関節の痛みにも「治療」というものが施されるものだと思っていたのだ。それなのに、医者は老化という一言で無策にこの状況を放置しようとしている。なんたる怠慢だ。全くもって納得できない。

私のにらみつけるような視線は、すでにカルテを閉じて看護師に次の指示を出している医師には全く届かなかった。

火傷をした時には、皮膚の再生を早めるために睡眠時間を増やし、ヨーグルトやささみなどタンパク質をとるように心がけた。ウィルス性胃腸炎の時には絶食して胃腸からウィルスを出し切るようにした。私にとって身体の不調は対処すべき課題だったので、常にできることを探し最短の回復を目指してきた。それが、今回はできることが何もないというのだ。

土曜日の昼前にクリニックの自動ドアから通りに出た私は、そこに立ち止まったまま途方にくれていた。商店街の中心の通りから一本入った道には、脇目もふらず小走りの若い男性、小さな子供をハンドル前のシートに載せた母親のこぐ自転車、ゆっくり歩く年老いた夫婦の姿がある。老婦人は杖を頼りに歩を進めている。この人は、いったいどれくらいの体の痛みや不調を仕方のないこととして受けれてきたんだろう。これまで想像もしていなかった、老いが強いる諦め、そしてそれを受け入れる度に感じたであろう怒りと悲しみの存在が重みをもって私の頭をいっぱいにした。

私はこれまで知らなった人生の局面を始めるのだ。落下を続ける自分自身を受け入れ、時には悪あがきもしつつ、その中で喜びや輝き、安堵や落胆を慈しんでいけるようにならなくては。

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