学問?言論?信仰心。

聖徳太子については、四天王や法隆寺の夢殿、救世観音像のいわれがきを誰が書いたか、ということの検証になろうかと思います。後世の諡として、馴染みのある呼称であり、あるいは仏教の宗派によっては、聖徳太子の霊告、お導きによって、と伝わるところもございます。もちろん三経義疏などで、その道をお遺しになった方ということで、尊重されてきたのかもしれません。
さて、お釈迦様にしても、あくまで伝法であり、誰も今の時代にお逢いすることは叶いません。それでも心や魂の中に息づいているかもしれません。
身分差別が厳しい社会で、その王子という立場を捨てて、一時は解脱のためか苦行に励まれたお釈迦様ですが、スジャータとの出会いで乳粥をいただいて、その愛に触れ、目覚められたのか、人々に寄り添い、多くの人たちに慕われるほどに、個々の人たちの苦悩や人生に寄り添い、縦横無尽の法話(例え話)によって、人々に愛されました。
自灯明、法灯明は、まさに素晴らしい言葉の一つです。
今の時代にも、現代の人たちに分かりやすい形で伝え直す工夫をされている方もいらっしゃいます。
昔の仏教を習った方たちは宗門宗派を超えて、私達以上にお詳しい方が、議論と言いますか討論と言いますか、お釈迦様のおっしゃりたかったいちばん大事なことは、こういうことでは、とそれぞれに伝わり習ったことを通して、覚ったことをぶつけ合っていらっしゃいます。禅宗も含めて、いろんな人たちのやり取りが、一部、後世の現代にも、伝わっています。
遠く離れた異国の人々の言葉が、現代の日本にも伝わっていることは、嬉しく思います。
キリスト教も全部が全部悪いわけでもありません。もちろん後世の教会関係者による、ガリレオガリレイを始めとする、間違った教えの理解による宗教裁判、魔女狩り、一部大陸における先住民迫害、またそれらを誤魔化した免罪符。
始めた人の言葉が、いかに素晴らしいものでも、後世の人たちによって、ある意味台無しにされた部分もあるでしょう。だからキリスト教も宗派が別れ、複数存在します。
(一応、)後世になって謝罪はされました。
言葉が違うし、慣習慣例も異なっている社会ですから、伝言ゲームでさえも、正しく伝えることは、案外難しいように、仕方がない部分もあるでしょう。
ですが、始めた人の言説やその足跡を鑑みれば、現在巷を騒がしている人たちが、生まれ変わりであるはずがなく、その言説は、あきらかに異なります。
それならば、まだ生まれ変わりであると言っていない教派や会派のほうが、まだ同じ人間として誠実であると存じます。いくら謝罪しても、また償っても、日本人が賠償して当然といった言説は決して口にされないと思いますし、自らの襟を正されることでしょう。これは、私の個人的見解ですが、おそらくは、世界には専門の学者もいらっしゃるくらいですし、歴史的な経緯がお詳しい方がいらっしゃるはずなので、きっと同じ見解の方が、いらっしゃることと信じております。

神道も、言霊、浄明正直、そして六根清浄、ミロク信仰や観音信仰も含めて、いろんな要素の影響を受けながら、それらを包含し内接しながら、残されてきた、私達の文化の一つです。おおらかさや寛容性のある精神性なのですが、私達の慣習や精神性に根付いている部分も多いと存じます。
決して、全ての人たちが軍国主義者でもなく、また特定個人のみを崇拝させるような偏狭なものでもなく、本当に、自然の多様な息吹を感じ、海の幸、山の幸に感謝を忘れないように、心掛けて、お互いを大事になさってきた空間を、護っている場所であったり、危険だから注意して、臨む場所であるということも含めた伝承もあったり、いろんな意味が織り重なって、残り伝わってきたものです。
私自身は、自分の魂を洗い浄めて、正気になり我に返る、そういう場所として、そこを掃き清め維持されてきた方たちへの敬意も含めて、訪れています。

着物にせよ、そのデザイン、意匠は、ときに海外でもテキストに掲載されることもある、素晴らしい伝統技術です。
ユニクロも悪くはありませんし、市松模様にカリグラフィーの組み合わせのブランドバッグも悪くはありませんが、着物のデザインにも、素敵なものが、たくさん昔から、ありますね。

ありがたいことですね。

どちらが先とか、元とか馬鹿らしい話ではありますが、現代は様々な形で、記録に残る社会であり、より次世代に伝える手段も多すぎるくらいでございます。
建築物の設計図などやAR,VRといった奥行きも含めて、また静止画だけではなく、動画と音声も含めて、記録が残せる時代です。
情報過多な社会ですから、いい情報だけに触れたい私ではありますが、あまりにも始めた人の言説と異なり、無知な人を惑わす、組織が今の時代にも存在するようなので、2世3世と呼ばれる人たちの声に真摯に向き合い、いくら信教の自由とは言っても、その在り処が、おかしなものは認めるべきではないと存じます。社会には、ある程度の自浄作用がないと、本来の趣旨や歴史的経緯をご存知ないままに、誤解が広まり、先人を汚す行為に繋がります。

聖徳太子の話に戻ると、足跡が今も法隆寺の夢殿の救世観音像や四天王寺の建立の謂れとして残っている上で、その否定が、学問的にあるいは言論の自由として、許されたとしても、それらを大事に思ってきた人たちの内心の反発は、やむを得ないのが人情であると存じます。
ただ、もちろん、御当人である聖徳太子や、そのさらに前の時代のお釈迦様にしても、きっと苦笑いはされるかもしれませんが、きっとお許しになることでしょう。
あの世に行っても、その学者様は、ご心配無用かと存じます。
ですが、この世の人たちが、たとえば、過去の教会の行いを赦せず、そのあり方を変えてこられたように、人としてのケジメとして、一線は引いた方がよろしいかと存じます。
それが自らを浄めて、宣り直す、のりなおし、ということでは、ないかと存じます。
そもそも、ほとんどの方の言説は、仏法の経典や聖書、あるいはそれらに、付随する人たちの言説を超えては、いないと存じます。
時代が進んでいるとはいえ、人間の魂としての成長は緩やかなものなのかもしれませんね。
未だに、他の仕事を用意ができないからと、身分制度がなくせない社会や、あるいは男女によって相続の財産が倍ほど違う社会も残る中、日本は、比較的に、良い制度が社会として成立し、成長できてきたと存じます。
もう少し、知らない人同士でも、仲良く喧嘩せず暮らせるように、おおらかな社会を維持するためにも、悪法や悪い制度は改めていったほうが良いかとは存じます。今の社会には、いろんな指標やデータの蓄積もございますので、消費税などで培われているデータや指標をもとに、生活必需品に着目したベーシックインカムというものを実現できたなら、これ以上は、望むべくもないと存じます。
もちろん、核兵器などの兵器を減らして欲しいですし、言論統制による恐怖政治や、また警察権力の悪用も、厳禁事項かとは存じます。
そのためのルールはある程度あった上で、おおらかに、協力しあって、生きていける社会でありますように。
悪法は、法にあらず。くれぐれも、法曹関係者は肝に命じて、次代へと繋げてくださいませ。

海外のことも良いですが、政治家は国内にも、もっと注力してください。もちろん外交は大事ですし、戦争後の日本に力を貸してくださった国々への恩返しも大事ではありますし、引き続き
友好関係を築いていただきたく存じますが、国内に住まいし方々のことも、今少し、目を向けていただきますように、お願い申し上げます。

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