見出し画像

偶有性とコトバ

今この状況があるのは条件が揃ったから。そうかもしれない。あらゆる人生の選択において、あり得たかもしれない未来はいくつもいくつも可能性として考えられる。あり得たかもしれないこと、つまり偶有性は担保されたまま、それでも人生は何かしらの選択によって進んでいく。自分の意志のようでいて、そうでないようでいて、でもやはり自分で選択しているような気がする。しかし、その選択に至るためには条件が必要だ。だから、条件が揃ったことが大きな理由となって、気づけばこちらの道を進んでいたと、そういうことになる。

しかし、条件が揃ったという事実は、条件が揃わなかった別の道も内包しながら、人生は続いていくということだ。あり得たかもしれない未来が複数存在していたとしてもなお、実際の未来は一つになるだろう。揃わなかった条件、歩まれなかった道は、もしかしたら丁寧に舗装されている途中だったと気づいてしまう、そんなこともあるだろう。
我々はそのような「諦められ置き去りにされた道や可能性」に対して、どのような気持ちで歩みを進めるのが正しいのだろうか?そのような気持ちになってしまうことがある。しかしそのようなことを思うことは、今ある素晴らしい道を否定することでは決してない。今の素晴らしい道をこれから歩む際に訪れる、積極的な弔いである。条件や偶有性という言葉を前にすればするほど、可能性は無限にあると同時に、現実は一つだけであることを嫌でも知らされる。分岐する世界は頭や空想の世界だけだ。我々が生きる世界は一つに向かうという“選択”である。

さて、偶然という言葉は、よくわからない。どの地点から見れば偶然なのだろうか?私が今いるこの場所は偶然だろうか?私の隣にいる人は偶然だろうか?偶然かもしれない。未来は全くの自由に開かれているといえばそうかもしれないと思う。でもどうして、ときにそう思いたく“ない”のだろうか?この選択に意味づけをしたくなってしまうのは、つまりは偶然ではなくて、最初からこうなることがもう既に決まっていて、今ある状態は偶然なのか必然なのかわからないが実は必然で、そして今の自分自身が「あり得たはずの道や可能性を中途半端にしてしまったのでは??」という罪悪感を感じることすらももうすでに決まっていたというふうに言ってほしいのかもしれない。「そんなことは全くない、裏に何の力動もなく意味もなく、刹那的で確率論的にそうなっただけだ」という冷たい世界を恐れる自分がいる。それは自分という人間の弱さだともわかる。冷たい世界が真実かもしれない。それを認めると今の状態は、ただ条件がそろっただけで立ち現われたものでしかないのか、しかしそれでも、、、それは冷たすぎる。と思ってしまう。

人はリアリティを求めたいと切に望む。リアリティ。意味や裏に働く力など想定せず、ただ条件が揃って配列されていくような唯物的世界観、これも一つのはっきりとしたリアリティである。人が死ねば自然に死体として残り、やがて腐敗していき、骨となり土に還るというような、そういうリアリティである。しかし、それはおぞましいほどに血が通っていない世界だ。血は人体のあらゆる組織に栄養分や酸素を運搬するものとしてのみリアリティを記述するのか、他ならぬこの私という質感を体験するために身体全体を流れるものであるというリアリティを記述するのかは重要だ。私の身体には血が流れている。そしてその血は私の生命を確実に刻んで熱を帯びている。「主観的体験」としてそれは今現在も私の身体を構成する、立派なリアリティの一つである。意味づけや選択や必然を志向するリアリティは他ならぬこの私からしか出発しない。予め完全に決まっていたと言われるほどに非常に強い力が裏に働いていたなどとそんなにはっきりと言われなくても構わない。むしろそのような決定論的な、運命論的な未来や人生観も窮屈である。しかし、「今の選択は、あなたにとって実は必然だったのだと思うよ」という、今立たされた道の上で背中を押してくれるような、そんな必然性、それが結局は人が求めるリアリティなのではないかとすらも思う。決定論的ではない必然性。「ゆらぎを内包しながらも必然性をまとったような」。

偶然と必然は違うものだけれども、偶然が必然に変わるとき、そこには物語がうまれ、意味づけが行われる。いやむしろ、そうしたくなってしまう。しないと気が済まなくなってしまう。人は荒野のなかで、文字通り唯物的な現実だけを直視し、太陽の熱で身体を焼かれるのに耐え難いのだ。意味自体がさらに迷いを生み出し、苦しみを生むものだとしても、そこに同時的に現れる救われや喜びを求めてしまう。そして、それでいいのだ。ゆらぎと必然性が同居するというのは不思議だ。けれども"物語"や"意味づけ"や"喜び"は、そのしなやかな場所でこそ相応しい。意味を求めてしまうという人間の存在こそが、唯物論とアンビバレントな緊張を保ちながら、この道を歩んでいく決意をするのだから。そして、これは"迷い"を内包するわけではない。決意であることは、先ほども述べたが同時にあり得たけどあり得なかった道への弔いである。可能性は無数にある。しかし、現実は一つしかない。弔いは萌芽や、舗装されていたけれど通ることのない道へ弔いだ。弔いは必ずしも悲しい行為ではない。この弔いはあり得たはずの複数の可能性が一つの現実に収束するための儀式であるから。そう考えるならば、作り出されたたくさんの可能性は無くなりはしても、"腐敗"することはない。無碍に捨てられた死体があらゆる自然の摂理に従い、意味のない無意味として腐敗するようなあり方ではない。

選択することの“必然性”は、ずっとずっとあとで、まるでこの道の先が何であったかもうすでにわかっていたかのような至福を持って、立ち現れることを知っている。おそらく人間の身体には構成主義的な未来の時間が流れている。つまりは、パズルのピースがはまる場所がわかっているかのように、未来を向けて歩む。そのときに、「この世界はよくできている」と思うだろう。それはもうすでによくできているからであって、その確認行為をしているに過ぎない。しかしながら、この確認は、わからなさを抱えながら生きていかなければいけないという宿命を抱えた我々凡夫が束の間に感じる神秘である。神秘は常に神秘であり、常にその神秘のなかで進んでいる。人間であるということは「その神秘にほとんど気づけない」ということであり、あるいは、「ほんの少しだけその神秘に気づける瞬間がやってくる」ということでもある。そしてこの矛盾するようなことが同居していること。それが"ゆらぎ"ということである。

結局我々は、自分の選択で生きているのだろうか?神秘の中で進む時間を確認しているだけなのだろうか?一生答えはわからない。誰もそれは教えてくれないし、そのような不思議な構造を生きることが人間として生きるということだろうから。いやはや。きっと言葉がなければこんなことにはならなかったのだ。言葉があるから刹那的事実だけでなく、可能性が無限に出現する世界に住まうことになったのだ。いやしかし、今話している言葉ではない、言葉ではなく“コトバ”があらゆるものに先行しているのかもしれない。やはり、「はじめにコトバありき」だったのかもしれない。だから偶然が必然になっていく過程で、コトバが溢れていくのだろう。そのコトバは、おそらくほとんどの人が理解できるコトバではあるかもしれないが、僕の中では初めてのコトバなのだ。選択することはコトバをこれから紡ぐことだ。まだ知らないたくさんのコトバを。
※珍しく身体に帰着しなかったが、おそらくこの"コトバ"は結局は身体そのものなのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?