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他者の他者であること

自己とは関係性のなかにおいては、他という存在とともに成り立つ。このことは今まで何度も確認してきたことだ。他がなければ自己という概念は必要ない。さらに、自己は他者から見られる存在とも言える。自分の顔を直接自分で見ることはできない。顔は常に外部に向けてある。もっと具体的に言えば、顔は外部に向けて、自分で確認できない存在として露出している。他者は一生知り得ない自分の顔をみることで、自分という存在を絶えず確認している。なるほど、この顔の例はあくまで一例なのだが、自己とは他者の他者として立ち現れると言えるだろう。ならば、自己卑下は他者の他者を毀損することである。自己が誰かにとって大切な存在ならば、自己卑下はその誰かの大切な人を侮辱することだ。なぜ人を侮辱してはいけないという道徳感が溢れるなかで、自分を侮辱することは、不道徳だとされないのだろうか?僕はときに不思議になる。

さらに具体例を出そう。
例えばAさんがいる。Bさんがいる。Cさんがいる。
AさんにとってCさんは大切な人なのだが、BさんはCさんのことをこき下ろし、侮辱する。Aさんは不愉快である。なぜなら大切な人Cさんを粗末に扱われたのだから。

さて、ここでBさんとCさんは実は同一人物ということにしよう。めんどくさいが、先の文章を書き換えてみる。

AさんにとってBさんは大切な人なのだが、BさんはBさんのことをこき下ろし、侮辱する。Aさんは不愉快である。なぜなら大切な人Bさんを粗末に扱われたのだから。

この文章を見ると、一般的に見ればBさんは自己卑下しているということになるだろう。しかし、それは先の文章と照らし合わせてみるならばAさんにとっては大切な人を粗末扱われる経験をしているということだ。それは謙虚とはまた違う。謙虚はいい意味で使うが、自己卑下はいい意味ではないだろう。それはこういう構造があるからだ。

自己卑下はお互いに悲しい。大切に思われていることに気づかない、あるいは認めない頑固さへの悲しみと、大切な人を粗末に扱われる心の痛みに対する悲しみと。大事なことはこのような図式を知ることだ。自己卑下が習慣化してる人は自分の性向をもう一回問い直してもいいんじゃないか、と思う。もしかしたら謙虚になりたいのかもしれない。しかし、「本当に謙虚になるためには、自分のことを大事に思う人の気持ちを粗末扱うのは少し違うのでは?」と気づくことから始まるだろう。

先に意見を言って後出しだが、根本から考えてみる。他者の他者としての自己、なぜか人は他者の他者としての自己を粗末に扱っていいことにしている。そもそもこれはなぜなのか?
自分という存在はどこまでも”執着”と関わり続ける。自分にこだわり続ける限り、扱いが粗末になったり、大事にしすぎたりする。自己を粗末に扱うことの方が、自分を中心に考えることよりも美徳のような気がするのは日本という文化にいるからそうなっているだけであり、時代の流れに乗っかっているだけである。根本にあるのは自分への過度なこだわりである。こだわるということの、表出の仕方が違うだけなのだ。

しかし、粗末に扱うのをやめ、大事に扱うにはどうしたらいいのだろう。自己を大事に扱うとは、自己の生命が生命であるために命の流れに任せるということでもない、当然自分だけ特別に大切にして守り続けるということでももちろんない、懸命に育ててくれた両親や周りに感謝すること?もちろんそれは一理あるかもしれないが、そういうことでもないのだ。それは死について考えれば、薄々見えてくる。自己が他者の他者として存在すること、それは命の終わりが死ではなく、自分の外側が内側だと気づき、自分の内側が外側だと気づくことである。つまり、それまで、死とは生がなくなった状態が死であると思っていた状態から、死は自分の内側に常にあると気づくこと。また、死は自分の内側から出現すると思っていた人が、死とは他者の存在を持って死が定義されるということを知ることである。私が生きているということは他者を鏡として、理解される。それと同時に私が死ぬということも他者を鏡として理解される。鏡という理解だけでなく、他者の他者として自己が立ち現れるという事実を知れば、私は外側と内側に死を発見することになる。これが自己なのだ。これが自己という存在様態なのだ。我々はある日ただ独りで死ぬ。それと同時に他者の他者として、我々は誰かの内側で同時に死ぬ。人が存在するということは、誰かの内側に宿るということだ。もちろんそれは自分自身が内側で感じている自己という意識とは違うものだ。でもやはり他者の他者として存在することを理解すれば、頭で考えれば一見不思議な現象が起こるのだ。自己であるということは外側と内側の境界に気づくこと、そして外側が内側、内側が外側であるとその次に気づくこと、さらに外側と内側が溶け合ってなくなることに気づくことである。このような気づきを得るためには、自己という外と内の境界を設けることが絶対に必要だったのだ。

いつのまにか、この洞察を経て、我々の目の前にいる他者は私の内側にも外側にも存在していることに気づいてしまうだろう。それは記憶として存在するということではない。魂が混ざり合ったとかそういうことではない。今や、自己への執着をやめて、互いに自己を映し出す鏡として存在していた他者という存在はもう鏡ではない。他者は他者である。自己は自己である。そして自己は他者の他者であるということに気づくのだ。さらに、”鏡という意味ではなく”、自己は他者であり、他者が自己になる。それは、自己と他者の地面からのつながりである。このような過程を踏まないと訪れなかった経験が、つまりは、今、生身の肌の人間が、ここに立っている。自己を投影し続け、きちんと見えることのなかった他者がようやく目の前にいる。そしてその他者は、投影という意味ではなく、私とつながっている。それは自己の執着というフィルターが取れたということ。そして世界は変わった。いや、正確に言うと変わらない。この世界のあり方に気づかなかっただけだ。今や全く違う次元の世界を経験する私は、他者の面前で豊かな感情に溢れている。まさに充溢するこの感情を経験すれば、もう言葉は必要ない領域にきたということだ。あとは、他者との“邂逅”をゆっくりと楽しめばいいのだ。それが他者が目の前にいるということであり、自分にこだわり続けるあまり、まったく見えていなかった〈他者〉と出会いなおすことができるということなのだから。

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