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近さとコミュニケーション

自分と他者との近さ、それは必ずしも心理的な近さと物理的近さが比例するわけでもなく、かといって心理的にも物理的にも近かったからといってそれは本当に近さがあるわけでもない。心理的にも物理的にもいくら近さを実現したとしてもなお無限に距離感を感じるというこの二律背反的実際が、おそらくはコミュニケーションの欲望と繋がっている。欲望は実際の距離と距離感が完全に一致していれば消失する。欲望が存在するということは他者と“あいだ”が存在するということで、この“あいだ”は畏敬であり、配慮であり、愛である。愛が距離感とともに語られる理由はまさにこれであろう。欲望を感じるとき、他者は別に後退などしていない。私自身も後退りすることなくしかしそれでも離れていくという事態が生じる。むしろ欲望を抱き続けるという自分の気持ちこそが距離感を生じさせるのだ。距離はいくらでも近づけることができる。悩みを聞くこと、からだに触れること、一緒に食事を摂ること、あらゆる日常的な営みのなかで、距離は近くなるはずなのに。
コミュニケーションは距離感が消えたときに暴力に転化する。支配となる。別に距離は近くても構わない。距離が近いことが暴力となるわけではない。そもそも欲望を感じさせない他者など存在しない。他者であり得た瞬間に私にとってその人には距離感が生じるのだから。この距離感は、相手の気持ちは原理的に絶対に理解できない、ということを言っているわけではない。私と相手は同一の人間ではない、どこまでいっても同じ人間にはなれないから、と言いたいわけでもない。そうではなくて、その人が他者として立ち現れるということ、つまりは欲望を感じる相手として立ち現れるという自体が、他者は原理的に理解不能であるといった観念ではなくて、手を触れたりハグをしたりすることができるということ。つまり存在の肌理を感じられるということである。また、私という存在の肌理を同時に他者へ与えるということでもある。これは観念ではなくて身体で感じていることなのだ。今感じている感覚はどんな支配や暴力にも先立っていることを、身体を通して欲望するということなのだ。そしてそれは現代の社会に跋扈する「エロい」ではない。この「エロい」は暴力である。しかし、ここでいう欲望は“あいだ”であり、畏敬であり、配慮であり、愛である。そして、私が言いたい〈エロい〉とは、ここでいう欲望のことだ。そして私のいう〈エロさ〉がないコミュニケーションは危険である。そのような文脈において、近さは〈エロさ〉が絶対に必要である。これが消失したとき、人は支配と暴力によって人間に危害を加え、辱めることになる。他者はどんな支配や暴力も受けることのない存在だ。もし、私の目の前に人間が「他者」としてその場に立ち現れているならば。

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