話をきいてという気持ち

ただの愚痴です。面白くないです。自分の感情の整理のためです。

僕は最近軽いうつっぽくなっている。理由がわからなくて、季節の変わり目だからかなと思っていた。1月の終わりごろから徐々に体調が悪くなって、3月上旬に復活したかなと思ったんだけど、結局一進一退を続けている。よくなったり悪くなったり。理由がよくわからなかったんだけど、結局いろいろ仮定した結果、「話を聞いてもらっていない」ということかなと気づいた。話を聞いてほしい、こんなことを思っていた自分の辛さとは何なんだろうか。思えば僕は10月から11月にも軽くうつっぽくなりかけていた。今よりは軽かったけど。

僕は仕事を始めた。1年目の薬剤師だ。現在29歳。いままで大学院とか行ったりして研究やってたりもしたからかなり遅れて、勤め始めたことになる。最初は慣れるのに手いっぱいだった自分も、次第に慣れてくると、周りの人はとてもいい人、親切で優しいのだけれども、話が合わない、僕が普段話すのとは違う話題を永遠と話していることに対してしんどくなってきた。あんまりさして面白くもない話題をずっと話している人らに、僕の考えていることを話したところで、理解もされない。もちろん何回か話したことあるが、当然「ふーん」「へーすごい」「難しすぎてわからない」「でもさぁ、、、」ばかり。そんな環境にいることがだんだんとしんどくなってきた。自分の話ができないので、僕はまわりの従業員らの話題に合わせることにしたのだった。僕は自分が普段使う言語、語り口をあまりせずに、平易な言葉で語るようにした。これでようやく周りの人たちに適応できていくのだろうと思いながら。でも、この努力も次第に僕の"母国語"は封印して、他国の言葉を使うような感覚になってきた。いや、そんな例えは適切でないかもしれない。僕も周りも日本語を話し、日本語で意思疎通しているわけだから。母国語を封印して英語で話すような、そういう感覚よりももっと深刻でつらい、封鎖環境のような気がする。話しているけど話していない、まるで味のないガム、砂を永遠と食べているような言語。。僕にとっては周りの人たちの会話はそうとしか捉えられなくなった。苦しくなった。

僕は少し調子を崩した10月にもそういうことを思っていた気がする。そしてそれから少しずつコミュニケーションスタイルを練り直して、周りに合わせるようにして適応してきたんだと思っていたのだった。しかし、それで今、"つらい"という感情が切実に現前してきている。これはおそらく過剰適応なのだろう。過剰に適応しようと頑張るあまり、語りたい言葉を語る機会を得られず、カラカラに渇いた魚のようだ。魚は周りの人との関係を円滑にしようと、結局は楽しい聞き役に回るしかない。聞き役は大量の無味乾燥な言語を浴びせられて、渇く。言葉に対する渇き。おそらくそれがここ最近、精神的に調子が悪いことの原因なのだろう。今日やっと自分のなかで気づいたのだった。

話を聞いてほしいと人は誰でも思う。口を開けば、きっと誰かは話を聞いてくれるだろう。でも、話を聞いてくれると一口に言っても、どのくらいまで話すのかということの深度は相手によって大きく大きく変えている。僕の場合、胸襟を開くための言葉は、、残念ながら難解なのだ。誰に話すか、僕は意図的に人を選んでいる。もし話の中で、指をいじりだしたり、髪をいじったり、挙句の果てにはスマホをいじり始めるようでは、もう話を聞いてもらっていることにはならない。そんな態度を見つけてしまったら、人は本当に大切なことを心の内へしまい、閉ざしていく。

話を聞いてもらうというのは、本当に難しいし、話を聞くというのも難しい。聞いてもらう人の教養や、人生経験や、いろんなことを加味して、僕らは話を聞いてほしい人を選ぶ。選べなかったとき例えば今回起こったことのように、明らかにいつも会う、話を聞いてくれる人との出会いの比重が変わったとき。これは本当に苦しい。僕は新しく環境が変わって、話をする人が変わった。話の受け手が変われば、話す内容も変わる。話が合わなければ、以前から仲の良かった人とも話そうと努める。だが、勤める前ほどに時間はない。全然ない。どんなに会えても月に3,4回だろう。それでは足りない。全然足りない。話の通じる人、話をしててキャッチボールができる人、僕の話に飽きたように爪を見るのにものすごく夢中になったり、枝毛を見つけるのに必死になったりしない人、そんな人と話したい。そして僕はいままで自分の語る言葉に理解ある人と話してきた。本当に恵まれていた。しかし、そうではない退屈な人がたくさんいる環境に投げられたとき、人は過剰適応で悲鳴を上げる。だから僕は軽いうつみたいになって、やる気がどんどんどんどん失われてしまう。

人は本当に、話を聞いてもらうことが大切なのだ。そう痛感した。本当は毎日のように、話が通じるという感覚を持ち続けたいものなのだ。たしかに世の中にはいろんな人がいる。話が通じるほうがまれだ。それでも人は話が通じると感じる人と一緒にいたいのだ。これからどんなふうにして仕事していけばいいのかといろいろ考えるが、話が通じる感覚というのは大切にしていきたい。そしてそれができない場所にずっといるのは、精神衛生上非常によろしくないことも今回の不調でわかってきた。

人は話を聞いてほしいと思う。そしてそれは自分の言外の意味や、その言葉が位置する"現在地"も含めてわかってほしいと思う。ただうなずくだけや応答するだけでは、人は絶対に聞いてもらっているという感覚は得られない。話を聞くという行為の源泉は、テクニックではない。"内側にある豊かさの総体"である。豊かさのないものに、人は本当の意味で"言葉"を開陳することはない。自分の知らないことには興味を持たず、蓋をする、ないことにする、そのような態度では、豊かさは内に宿ることは決してない。"内側の豊かさを育む態度"こそが聞く力をはぐくむ。僕はそういう人間でありたいと思う。そして、そういう人間であることを時々でいいから人に求めてもいいだろうか、とすら思う。たとえ難しくても、よくわからなくてもなかったことにせず、時々でいいからそういう態度でいてほしいと思う。

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