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いてくれること

おそらくここに書いた文章は誤解を生む。むしろ誤解しか生まないだろう。書いた自分自身が誤解しているかもしれない。だからあらかじめ誤解しないようにという前置きを付け加える必要がある。それは、私が寂しすぎて苦しんでいるということである。そのような心理的な分析はこの文章を読む際に何の意味も持たない。ここに書いたことは単に私の苦しみの吐露として受け取ってはならない。




空間を共有するとは、手を伸ばせばふれられるということ。しかもそれはただの物理的な接触にならない。きっと電車のなかでうとうとして隣に寄りかかってしまうこと、それは物理的な接触だろう。もしその人が優しく受け入れてくれればそれは違うものに変わるかもしれないけれども。

こころにふれるとき、それは、循環して何も変わらない愚痴が続くような日常の虚しくて無駄で楽しくない輪廻には決して訪れない、優しいふれである。みんな優しく触れられたい。不愉快でなく、失礼でなく、不自然でなく、こころのこもった優しさを。ハラスメントは、そのような優しいふれとは全く違うところにある、暴力の一種である。同じ人が同じところにふれたとしても、そのふれが優しさを含まないとき、暴力として、他者を傷つける。

優しさは、循環的に続く負のサイクルをやめましょうと丁寧に促す。負のサイクルは、その力を失い、徐々にその速度を緩め、止まっていく。その後で、じっくりと、別の負の感情が顔を出す。この感情は、非常に強い力を持って怒りと悲しみを放出するだろう。腐臭を放つ黒い塊は、洗い流されねばならない。今まで心の奥に押し込められて、取り出されなかったこのヘドロのような心の澱に、私は手を差し出す。この手を差し出す。不思議なことだ。その澱を“聴くこと”、それは必ずしも不愉快で苦しい作業ではないのだ。私はかき分けた塊から、少しずつ石を取り出していく。その中には、宝石もたくさん眠っているだろう。それは原石なのだ。本人ですら気づかなかった、この原石、これは過去のヘドロがへばりついて取れなかった。でも、私はこの手で、それを掴んで、洗って、また新たに並べる。

私は手をのばして、相手の手を握る。こんなにやわらかくて、温かい。気づかなかったのか、あなたの手はこんなにやわらかさをもった綺麗な手だったのに。私はその手に、新たに並べ直した原石をお返しする。ドロドロにへばりついた、心の澱を取り除いて、これから光る美しい原石を、お返しする。私はこの手にお返しすることと引き換えに、こんなにきれいな手を握ることができたのだ。手はふれられないものであってはならない。手は握られる。人は決して手を握られることが嫌なわけではない。

いてくれることとは、そばにいて手に握ることである。激しく怒りと悲しみを訴える言葉たちは次第にその荒ぶりをやめて、私の手の感触に落ち着いていく。だから、安心したらいい。笑顔は戻る。呼吸も次第にゆっくりと深くなる。もちろん私だって深くなる。優しさは、相手だけでなく、自分にとっても優しさである。このいてくれることのふれあいは、きっと欲だろう。また新たな課題を生んでいくだろう。この世界の心地よさは新たな欲という結び目を作っていく。たとえこの心地よさがまた次に来る欲の乗り越えという課題につながっていたとしても。それでも、来たる原石を取り出すために、私は欲と歩みながらこの手を伸ばさないといけない。

欲は次第にコントロールを無くして、無際限に求め続けるものだろうか?たしかにそうかもしれない。また手の優しくて温かな気持ちよさを求めたくなる。もっとふれていたい、そして、相手もふれたいと感じてしまうかもしれない。気持ちいいから、人はどうしてもこの優しさという気持ちよさに安心するから、柔らかさや温もりに安心するから。これすらも欲として、対象物となって、迫ってくる気がしてくる。

私が手を握って、相手の原石を握らせたことは、間違い、ではない。決してそうではない。何度も何度も新たな課題が現れてそのたびにまた心は濁って澱は溜まっていく。この繰り返しだと絶望することもできる。そして、もしかしたら、人の話を“聴くこと”もまた、一見心の深みに潜って、他者を救出するように見えて、実は人間の弱さの支え合いという循環構造によって、救われない輪廻の繰り返しなのかもしれない。そんなことすら思わせる。人が生きることは寂しく、悲しい。

けれどもいてくれることが天の恵みとして、陽の光に照らされて、この肌に触れるたしかな気持ちいいという感覚を、肯定してほしいと、拝みたくなってくる。私の弱さである。しかしこの弱さなしに肯定もない、共に生きることもない。

そう、だから結局、いてくれること、それを望む他者のもとへ“いること”、手にふれてぎゅっと握ること、励ますように。もちろんきっと欲から来てるのだ、欲から。邪(よこしま)とは何だろう? いや、そういうことではないかもしれない。それらは産物であって、理由ではないのだと思う。私は人の話を聴いて、心の澱をとること、優しい表情を向けること、あなたは大丈夫、応援してるから、大切だから、と伝えること、このことがあまりにも嬉しいのだ。この世界で寂しさを抱え続ける奈落の底にいる私の温もりである。

身体に失礼なく触れることと心に失礼なく辛い話を聴くこと。私は自分のこの身体と心を差し出す。これはまさしく欲だ。そして、私が人間として、永遠に自己に閉じ込められたかのように感じながら生きている、切なさのやり過ごしである。やり過ごしであると分かっていても、私はいてくれることを実行し、話を真剣に聴き、手を握るだろう。私は構わない。そして、誰かがふと感謝をそばでささやくことがあるかもしれない。そして、それだけが、私という自己の牢獄を抜け出させてくれる鍵となるということを、信じている。奈落の私への救いだ。

さて、拒否される不安を抱えながら生き続ける、過去の引きずりから解放されるとは、人を拒否しないことなのだ。人を拒否しないで受け入れることは世の中の常識に反することだ。世の中では、人を受け入れてはならないことになっているのだ。もちろんそれは表面の話ではなくて、無意識の話である。そして、私個人の人生の大きな課題として、「他者の拒否」があったのだ。拒否しないことを継続すること、それがいてくれることであり、愛である。愛とは閉じられたものではない。開かれていくものである。愛を開くことは、この世界のご法度となる振る舞いだ。しかし、愛を閉じることは拒否することだ。もっと言えば、“開かれて構わない相手”すらも拒否することだ。この世界は深刻に閉じられることを望んでいる。人と関わることは毒であり、問題の元であり、面倒の始まりであるからだ。私という存在はまさに問題共有体の着火点である。私を起点にして問題は起こる。むやみに人に触れてはならないこの世界で、心の奥に溜まった澱を取り除く大事な課題は、表面に現れる粗雑なやり過ごしを繰り返し対症療法としてなだめることで、結局うやむやにされる。この社会のご法度であっても、たとえそれが毒で面倒であっても、私は先に進まなければならない。それがいてくれることの体現であり、もうそこにしか道は残されていないというほどに、この世界は愛が貧困化しているから。

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