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偈頌:苦しみと日常と

こころがざわついても 悲しみにくれても

日常は続いていく

この呼吸と鼓動は同じように

私にいのちを与えている

だから忘れてはならない

自分が優しい大地の上で

守られていることを


日常が続いていくことがときに残酷に感じられるようなときもあります。しかし生きているという事実は変わりません。どうしようもないときは、この事実から始めるしかないと思っています。
人間には3つの機能があります。僕はそれを「あたま」「こころ」「からだ」と呼んでいます。哲学者のカントや人智学のR.steinerは思考・感情・意志などと呼びました。その概念をベースに仏教的に考えてみます。
僕は、最も信用できないのがあたまだと考えています。あたまは判断を下すために必要な機能ですが、往々にして、判断しなくても構わないような余計なことにまで判断を下してしまう癖があります。この癖、あたまのなかにある観念は、人のこころやからだに簡単にダメージを与えてしまいます。こころやからだが疲労感でいっぱいになってしまうとき、それはあたまに支配されてしまった状態ということでもあります。そして、それが“苦しみ”になってしまいます。

呼吸や鼓動、いのちということを感じるためには、こころとからだが大変重要です。こころとからだは同時的に働くような性質があります。もちろんこころは元気だがからだが疲れているというようなこともありますが、概ね同時的に機能します。
「つながる」という感覚は、こころとからだが働いているときに感じる感覚です。人と繋がる、他の生命とつながる、宇宙とつながる、大地とつながるなど。あたまは気づけばつながりを忘れさせてしまいます。つながりの忘却は確実に苦しみになります。あたまという機能が悪いと言っているわけではないのです。あたまはこころとからだという基盤があってこそはじめてうまく機能できるのです。そうすることで適切な判断を下すことができる。逆にいえばこころとからだを忘れてしまった判断はあまり信用なりません。これは別に僕が個人で好き勝手に言っている話ではなくて、仏教がずっと伝えてきたことであり、且つ、最近の脳科学の研究でわかってきた、思考と感情の関連性の実際のことを平易な言葉で書いています。

まとめると、苦しみを感じるときは、「忘れているとき」です。人はこころとからだを使っていつでも「思い出す」ことができるはずです。思い出す訓練は、実はとても大事なことで、この「思い出す」ことさえできれば、どんな嵐が吹いていてもなんとかなると思っています。

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