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傷ついたことを表明されて傷つくこと

「わたしはあなたの言葉に傷ついた」と訴えられるとき、その言葉は、当事者の治癒の意味を持たない。その外傷の治癒を求めているのだけれども、その希求は傷つけた側に刃を向けてしまうのだ。今回、傷つけた側の自覚が伴っていないとき、このような場合について考えたい。自覚を伴わない傷つけ、この行為に気づいてしまえば人はきっと懺悔の気持ちが湧いてくるであろうが、懺悔しなければならない理由がときにわからない、覚えがない、知らない、このような意識の不在ー無意識ではなく、意識の不在であるーによって、不意打ちを食らう。
我々のあらゆる行為、発言、思いは他者のトラウマに触れることがある。他者の古傷はこちらから見えることが少ない。この傷の可視性の非対称的現実は、自覚の埒外である。しかし、他者にとって重大で深刻な“抉られ”となるのだ。深刻な抉られによって傷つけられるとき、その加害者は気づいていない。加害性は他者のトラウマによって引き起こされる。他者のトラウマは何気ない発言に加害性を帯びさせ、発話者は傷つける発言をした悪人として、晒されることになる。
そしてこのような不意打ちは知らない間に様々なところで生じているだろう。知らぬ間に人を傷つけるということ、それは話された側の過去に傷ついた経験を呼び起こしてしまうからだ。発話することそれ自体が持つ加害性である。その加害性は私からは見えない不可視性によって気づかぬうちに生じている。きっと多くの傷ついてしまった人はその経験を隠すだろう。なかったことにするだろう。なぜなら傷つきの表明が、発話者を加害者にすることだからである。きっとこのような忍耐は日常的に生じていることなのだ。発話自体が非自覚的な暴力を内包する可能性として、存在するというこの現実。関わりを持つことは傷つき傷つけられる覚悟へと参入していくこと。
しかし、このようなことが自明であるというコミュニケーションの日常に、耐え続けるだけが、コミュニケーションなのだろうか?何気ない発話によってトラウマを深く抉られ傷ついてしまう私、表明を行うことによって、発話者を傷つけてしまう私。両端から引っ張られるこの傷ついた私は、傷つきを表明することによって相手を傷つける可能性をいつでもそれを外に出さずに抱えていなければいけないのであろうか?

手当て、傷つきをケアすること、それは他者の発話からの傷つきに対してであるが、それは発話者の身体から離れて、"言葉"となる。発話者から言葉へ。発話者への表明ではなくて、言葉それ自体の持つ刃の可能性へ、我々は歩を進める必要があるだろう。

言葉は身体的振る舞いや顔、環境そのような広範な意味を持って"コトバ"としておこう。コトバは私の内側から発されているようでいて、私の内側から独立することがある。このコトバそれ自体がもつ力は私の"あなたへの想い"を打ち消すことがある。その"打ち消し"はトラウマの悲しい効果なのかもしれない。記号的に発されてはいないが、トラウマによって記号的にとらえられたコトバは、発話者の自然な存在承認としてのあたたかなアストラル(念)を打ち消す。この打ち消しは、コトバそれ自体がもつ無機質性を際立たせ、他者のトラウマへ"刃"となって抉ってしまう。そもそもコトバは発話者の念に乗って、他者へと向かう。念とともに我々はコトバを享受するのだから。もし、このような傷つきへの手当があるのなら、それは念だけ送ることである。念とは、祈りである。

傷つきを表明すること、他者の念が打ち消されてしまうトラウマ。念を打ち消す理由は、さらなるあたたかな念をトラウマは求めているからだ、治癒に必要だからだ。この祈りは、その痛みにずっと無意識的、あるいは意識的に耐えてきた他者への労いを込めて。
自覚なしに加害者になってしまう私たちは、絶対的に他なる他者のトラウマの不可視性を鑑み、念を送ること。もしこのようなことができれば、傷つきの表明によって傷つけられた私も、同時に癒えるだろうか。
傷ついたことを表明する側に心理的余裕などない。傷つけられた気持ちに対して、自身で配慮するなど、求めようもない。傷つきの表明に傷つけられた側の懺悔、、、? これは成り立たないだろう。もはや反省という枠ではなく、加害者になってしまった自分自身に対する手当てとしての、祈りや慈悲が必要なのだ。
弱さに向き合うということは、無限後退しかねないあら探しや犯人探しの鎖を断ち切る、というよりむしろ連鎖的憎悪を生み出す人間の心への、軽やかな放置なのだ。放置した手前で、手を合わせてそこから立ち去ること。そのような祈りがあってもよいだろう。それは弱さを抱えたあらゆる人間に対しての一つの慰めである。

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