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社会の成立過程を問うということ[連載]第4回 映画『渇き。』

どうも、クイズマスターです。今回は、連載4回目の後編記事です。前回に引き続き、2014年に公開された中島哲也監督による映画『渇き。』を扱います。なお、僕の映画エッセイでは、ネタバレをしますので、ご了承ください。

元担任が加奈子を殺したことの意味

前編記事では、父・藤島と娘・加奈子の対立的なキャラ設定を明らかにすることで、藤島が加奈子に異常にこだわっている理由を説明しました。これを踏まえて、今回は前編記事の冒頭で述べた「加奈子の中学の元担任が、加奈子を殺すのってオカシイでしょ」という話をしたいと思います。

映画のモチーフを明らかにする上で、中谷美紀演じる加奈子の中学の元担任が加奈子を殺したということの意味を考える必要があります。このとき明らかにすべきことは、元担任が加奈子を殺した直接的な因果ではありません。それは、すでに映画の中で明らかにされていますし、展開の意外性を演出するものとして理解すれば、それで十分です。そうではなく、元担任が彼女を殺したということが映画にもたらす構造的な意味を問う必要があります。こんなことを念頭に置きながら、以下の文章を読み進めてみてください。

まずは、加奈子が身を置いていた状況を思い出してみてください。加奈子は、売春の斡旋を手助けをしていたヤクザのメンバーを文字通りメチャクチャにしたということで追われていました。そして、彼女の死後には、売春の斡旋元であるチョウの手下も失踪した加奈子を追い、両者が激突します。

なりゆきとしては、ヤクザに殺されかけて、そこを父・藤島が助けるというのが自然な展開でしょう。だからこそ、脇役であった元担任が加奈子を殺したということが意表を突いた展開に受け取らるわけです。では、このような意表を突いた展開が映画にもたらす構造的な意味とはどのようなものなのでしょうか。

教師としてのアイデンティティ

前編記事で述べたように、現実を夢のように生きる加奈子は、コミュニケーションが信頼できない脱社会的存在です。これは、売春業者の社長であるチョウや、売春を斡旋するヤクザたちとさえ、加奈子はコミュニケーションできないということです。反社会的存在である彼らに加奈子が共感の念を抱くことはありません。ヤクザたちが「ルールは守ってもらわないと困る」と言っていたことは、彼らが社会に内在していることを証しています。

これに対して、加奈子の元担任は、学校の教師という立派な社会的存在です。しかし、ヤクザたちと同じように、元担任も加奈子の行動によって尊厳を傷つけられました。その点で言えば、両者は、加奈子に対して共通した怒りを抱いていると言えるでしょう。この意味でも、ヤクザが加奈子を殺そうが、元担任が加奈子を殺そうが、展開としてあまり大差はありません。だとすれば、元担任が加奈子を殺すということの意味は、加奈子に怒りを抱くに至った直接的な理由にではなく、別のところに求める必要があるでしょう。

(C) 2014「渇き。」製作委員会

僕が思うに、ここで注目すべきは、元担任が社会的存在としての教師だということです。というのも、教師は教育者の役割を果たすために、生徒に権力を振るうことができる立場にあります。だから教師は、私的な価値観や考え方とは別に、常に正しい存在でいなければいけません。これこそが元担任が加奈子を殺したことと関係しているのではないのでしょうか。というのも、多かれ少なかれ、彼女が教師としてのアイデンティティを自分に内面化していたとすれば、加奈子の行動は、狂気に囚われた異常者としてしか映らないはずだからです。加奈子を殺すシーンで、元担任の「わからないでしょう?ここ(=頭)も、ここ(=心)も空っぽだから」というセリフは、このことを示唆しています。

なので、彼女の頭の中には、以下のような推論が瞬時になされたと思います。私の娘をヒドい目に合わせた加奈子は、狂気に囚われた異常者であり、彼女を殺すことは正当化され得るのだ、と。これは極めて興味深いことです。社会の規範性を遵守する教師が、社会の規範性を放棄した加奈子を前にした時、反社会的な殺人をしたという逆説的な現象が生じたのですから。だとすれば、このことの意味について考えてみる必要があります。

中島監督の狙い

別の観点から考えてみましょう。前編記事で述べたように、コミュニケーションの可能性を一切信頼していない加奈子のような人間を、社会学者の宮台真司は脱社会的存在と呼んでいたことを紹介しました。

これにもう少し補足をすると、脱社会的存在が出現したのは、グローバル化を背景にして生じた情報化とコンビニ化により、他者とコミュニケーションせずとも生き長らえることができるようになったという背景があります。情報化とは、インターネットを中心とした情報技術の普及です。コンビニ化とは、コンビニの普及に代表される大規模流通の普及です。つまり、脱社会的存在は、我々の社会が生み出した人間なわけです。

ところで、宮台が脱社会的存在について積極的に述べていたのは、1990年代後半〜2000年代前半です。最初のきっかけは、酒鬼薔薇聖斗事件でした。

これに対して、この映画が作られたのは2013年。宮台の議論から10年が経っています。それはつまり、2013年において、中島監督が脱社会的存在を対象にした映画を撮ることに意義があると考えたということです。逆に言えば、現代においても、脱社会的存在についての十分な理解が得られていないと考えたと言えます。皮肉なことに、これは『渇き。』についての作品レビューの多くが、刺激的な映像や物語に言及するだけに終始していることからも伺えます。

以上のような作品の外部情報を踏まえると、元担任が加奈子を殺すということの意味が明らかになります。すなわち、脱社会的存在に対して、我々の社会はそれを抹殺しているのだ、と。

だとすれば、元担任が加奈子を殺すのって、オカシイのではないでしょうか。あるいは、元担任が加奈子を殺すような世界は、オカシイのではないでしょうか。彼らのような人間を生み出したのは、我々の社会なのですから。

実は、先ほど紹介した宮台真司は、『渇き。』に公式コメントを寄せています。

とても静かな映画だ。
狂騒は見かけのこと。
社会を呪って生きる父。
社会をとうに諦めた娘。
父にとって社会は無間地獄。
だが娘にとっては凪いだ海。
いきても死んでも所詮は同じ。
だから残虐でも何でもできる。
ただそれを理解する人がいない。
父の愛はかかる理解に届かない。
久々に寓意に満ちた映画に会えた。
こうした寓意こそ監督の十八番だ。

読んで頂けるとお分かりかと思いますが、今回の記事は、この宮台真司のコメントから着想を得たものです。その意味で、彼がこのコメントで端的に述べていることを、より詳細に辿り直したと言えるでしょう。

社会の成立過程を問うということ

最後に、まとめをしておきます。元担任に感情移入して、可哀想だなどと抜かすのは、一般的な社会通念でのみ物語を理解しているだけでなく、自分たちが生きてきた社会の成立過程を考慮しない凡庸な見方だと僕は思います。刺激的な映像や物語に驚愕するという見方も同様です。その意味で、『渇き。』において、社会の成立過程を問うということは極めて重要なポイントだと言えるでしょう

とはいえ、以前記事にした押井守監督の映画『スカイ・クロラ』でも言及したように、上述したようなことについての理解が人々の間に普及すれば、問題の背景に存在する社会の不正が消え、社会が良くなるはずだと考えるのは大きな勘違いだと僕は思います。なので、加奈子ような人間が社会に抹殺されていることを糾弾しようと思って、この記事を書いたのではありません。そもそも、これは映画エッセイという体裁なので、主張めいたことを言うつもりもありません。ただ、この映画を通じて現代社会の問題を取り出すことができるということだけは、訴えておきたいと思います。

読んで頂き、ありがとうございました。それでは、また次回。

noteでのメディア活動は、採算を取れるかどうかに関わらず継続していくつもりです。これからもたくさん記事を掲載していきますので、ご期待下さい。