相米慎二監督による映画『台風クラブ』を巡って[連載]第2回

どうも、クイズマスターです。連載2回目となる今回は、1985年に公開された相米慎二監督による映画『台風クラブ』を扱いたいと思います。
なお、僕の映画エッセイでは、ネタバレをしますので、ご了承ください(その理由については、初回の記事にて)。

はじめに

僕がこの映画をはじめて見たのは、一時的な閉鎖を目前にしてさよなら興行を行なった「京都みなみ会館」でした。およそ、一ヶ月前のことです。

その時、この映画を含めて合計10作品ほど鑑賞したのですが、実はこの映画が最も心に突き刺さったのです。そういうわけで、再度レンタルをして、見直してみたところ、極めて痛烈な指摘を行っていると僕には思われました。

あらすじについては、こちらのサイトが参考になります。

冒頭シーンと結末シーンの衝撃

冒頭では、BARBEE BOYSの『暗闇でDANCE』という曲と共に、深夜の学校のプールで水着姿の中学生の女の子たちが踊り騒ぐという衝撃的なシーンが、スクリーンに映し出されます。

相米監督にいきなりしてやられた、と思いましたね。そこには、彼女たちの躍動感が映画に刻み付けられたいたからです。始まってたった1分しか経っていないにも関わらず、この映画の世界に引き摺り込まれてしまいました。

一方、結末では、この映画の主人公・三上くんが学校の窓から飛び降ります。この時の三上くんが学校の窓から飛び降りるまでのセリフは、やはり引用しておくべきでしょう。

オレわかったんだ
なぜ、リエが変になったか
なぜ、みんながこうなってしまったか
オレはわかった…
つまり、死は生に先行するんだ
死は生きることの前提なんだ
オレたちには、厳粛に生きるための厳粛なしが与えられていない
だからオレが死んで見せてやる
いいか、よくみてろよ!これが死だ!!

以上のセリフからも分かるように、三上くんの死は、この物語の最大の山場です。そして、それまでのシーンのほとんどはこの最後のシーンのために配置されていると見做すことができます。それはつまり、三上くんの死こそがこの映画を紐解く最大のカギなのです。その意味では、実はこの映画はとても分かりやすいと言えるでしょう。

それでは、なぜ三上くんは、あの場面で死ぬ必要があったのでしょうか?

三上くんが死ぬまでのシーン

まずは、三上くんが死ぬまでのストーリーを簡単に追ってみましょう。

冒頭の深夜のプールで踊り騒いでいたシーンには、その後の展開があります。同じ時間帯に学校で泳いでいたアキラという男の子を見つけた彼女たちは、彼のパンツを脱がせ、プールのコースロープに彼を縛り付けて、プール内を引き摺り回した挙句、アキラを気絶させてしまうのです。

別のシーン。理科の実験中、三上と同じ野球部に所属している健は、恋心を抱いている優等生のミチコの服のスキマにマッチを入れて背中に大火傷を負わせます。この時、深夜のプールで乱痴気騒ぎをしていたメンバーの一人が、大笑いしながら悶え苦しむミチコの姿を眺めています。

別のシーン。三上の恋人のリエが三上に対して「あ〜あ、台風来ないかなぁ。ねぇ、三上くんもそう思うでしょ」と話した翌日、家出して東京へ行ってしまいます。

別のシーン。台風がやってきたにも関わらず、こっそり学校に残った健、ミチコ、演劇部の女の子3人に対して、家に帰るように三上くんが説得をしますが、全く相手にされず、最終的には三上くんも含めた全員が下着姿になって踊り騒ぎます。

さて、こんな感じのことが三上くんが死ぬまでに起こるわけですが、どう考えてみても、これらは普通の状態ではありません。このことに対して、三上くんは違和感を感じて、その理由を考えていたわけです。「なぜ、リエが変になったか・なぜ、みんながこうなってしまったか」と。

個は死を超越できるのだろうか

映画の前半部分に最初のヒントが隠されています。台風がやって来る前日、三上くんは、東大に通う三上くんの兄に対して「個は死を超越できるのだろうか?死は個の種に対する勝利って聞いたけど」という哲学的な質問を投げかけるシーンです。この質問に対して、三上くんの兄は、「それはつまり、ニワトリとタマゴだな。個がタマゴで、種がニワトリ。」と返答します。あまり、ちゃんとした答えになっていません(笑)

とはいえ、このシーンが示唆していることは、三上くんが内省的なタイプであるということはもちろん、死の絶対性について考えているということです。

死の絶対性とは、何か。それは、いつか誰もが死んでしまうということから絶対に逃れられないということです。そして、このことを逆手にとって、あえて自ら死ぬ時、個人の観点から見ると、種の存続に対して抗っている、と言えるのではないか。こんなことを三上くんは考えていたのだと思います。

ここを起点に据えた上で、三上くんは何を考えていたのかを明らかにする必要があります。このことを考えるために、少し別の切り口からもう一度映画を振り返ってみましょう。

リエが家出した理由、ミチコが崩壊した理由とは?

三上くんが哲学的な問いを示した翌日、リエと一緒に学校まで登校するために、いつものように家の前まで向かいに来ていた三上くんは、どういう訳かリエが家から出てこないので、先に学校に行ってしまいます。リエは寝坊していたのです。

寝坊して起きたリエは、そのことに気がつき、急いで学校に行こうとするのですが、母のベットの中で自慰行為に耽った後、東京へと向かう訳です。

一見、支離滅裂に見えるリエの行動は、彼女の発言を追って見ると理解できます。ポイントは二つです。一つは、ベットの中で自慰行為に耽っていた時の「お母さん…」というセリフ。もう一つは、東京で出会った東京の大学生と話した時の「あたし、嫌なんです。閉じ込められるの。閉じ込められたまま年とって、それで土地の女になっちゃうなんて…耐えられないです。三上くんは、卒業したら東京の高校に入るっていうし…」というセリフ。

ぼくの考えでは、この一連のシーンを通じて分かることは、母の不在と三上の不在とが重複した結果、「リエは変になった」ということです。と同時に、学校に通っている毎日について「閉じ込められ」ているという感覚を抱いていることも分かります。これは、前述した「あ〜あ、台風来ないかなぁ」という部分とも対応しています。つまり、リエは、「ここではないどこか」へ行きたくてしょうがなかったのです。その欲望が母の不在と三上の不在によって増幅され、彼女を東京へと急き立てたのだと言えるでしょう。

しかし、これだけでは、三上くんは何を考えていたのかがまだはっきりと分かりません。なので、もう一つ別の切り口を提示したいと思います。

前述したように、映画の終盤では、三上、健、ミチコ、演劇部の女の子3人が下着姿になって踊り騒ぎます。ここで注目しておきたいのは、ミチコです。実は、このシーンの直前に、ミチコは健に犯されそうになるのです。その後のシーンでは、「ミチコ、帰らなくていいのか?」と三上くんが問うてみて、空虚な眼差しで「あたし、もういいのよ、どうでも」と答えています。

これはものすごく単純に、ミチコにとっての性の目覚めと関係していると言えるでしょう。健に犯されそうになったことで、自分が他者から性的な眼差しで捉えられる存在であることをはっきりと自覚するのです。

さて、今ここで二つの切り口から振り返って見ると、両者には共通するものを見いだすことができます。それは、他者のまなざしの有無です。

リエが家出をした理由は、母のまなざしの不在・三上のまなざしの不在です。他方、ミチコが崩壊した理由は、健のまなざしの顕在です。両者は非対称な関係<顕在/不在>にありますが、どちらもまなざしの欠落によって規定されていると見做すことが出来ます。したがって、とりあえずは以下のように言うことができるでしょう。すなわち、三上くんが死んだ理由は、他者のまなざしの欠落に由来する、と。

しかし、これだけと少し物足りない感じがします。他者のまなざしの欠落と、死との関係性があまり鮮明ではないからです。今回はここまでで終了したいと思います。

というのも、僕なりに考えてみたのですが、問いの答えが曖昧だからです。とりあえずの未完成原稿として、アップしておき、また後日にこの映画に立ち返って考えてみたいと思います。

noteでのメディア活動は、採算を取れるかどうかに関わらず継続していくつもりです。これからもたくさん記事を掲載していきますので、ご期待下さい。