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何かを変えることに賭ける[連載]第3回

どうも、クイズマスターです。連載3回目となる今回は、2008年に公開された押井守監督による映画『スカイ・クロラ』を扱いたいと思います。
なお、僕の映画エッセイでは、ネタバレをしますので、ご了承ください(その理由については、初回の記事にて)。

『スカイ・クロラ』の世界観とは?

押井は、本作が公開される際に「若者たちに伝えたいことがある」という強い想いをメディアの前で公言しています。また、そう思うに至った理由として、別れて暮らしていた娘と20数年ぶりに再会したことで、若者を身近な存在として感じられたというエピソードも語られていました。はじめて若者を対象にした映画を作ったという点で、この作品は押井にとっての転機となったとも言えるでしょう。

まずは、映画の中にはっきりと説明されることのない『スカイ・クロラ』の世界観について整理しておきましょう。

舞台は、架空のヨーロッパ。永遠に生きることを宿命づけられた「キルドレ」と呼ばれる子どもたちが、この物語のメインキャラクターです。彼らは、戦争請負会社の戦闘機パイロットとして生きることを半ば義務付けられており、戦闘で死亡すると、同じようなキルドレが再び基地に送り込まれます。いわば、クローン人間です。

大まかにいうと、こんなところでしょうか。他にも重要な要素があるのですが、それは追い追い説明していくことにするとして、キルドレである函南優一が戦闘基地に赴任してきたところから物語が始まります。

(C)森博嗣/「スカイ・クロラ」製作委員会

冒頭には、戦闘シーンもあります。そこでは、「ティーチャー」と呼ばれる最強のパイロットが登場し、後の物語でも重要な役割を担います。3Dで作られた戦闘機が空を飛び回る戦闘シーンは、眩暈を引き起こすくらいに見事です。

地上のシーンでは、戦闘基地であるとは思えないくらいに、ゆったりとした時間が流れていて、他愛のない会話が他のパイロットたちと繰り広げられます。そして、函南と同じ部屋で寝泊まりしている土岐野との会話を中心に、様々な謎が明らかになっていきます。

最後まで観て見ると、よく分かるのは、冒頭のシーンが後半シーンの伏線として機能していることです。なので、是非とも2度ご覧になることをお勧めします。例えば、函南が基地の女性指揮官である草薙水素に挨拶をするシーンで、草薙の微細な表情の動きに注目すると、その時の彼女の気持ちが手に取るように分かります。が、それはもちろん、この物語の構造について、ちゃんと理解しておく必要があります。

映画の核心を語る草薙の長ゼリフとは?

早速ですが、物語の構造に迫ろうと思います。そのためには、夜の喫茶店で、草薙が函南に語った長ゼリフを紹介する必要があります。と、その前に、少し前のシーンのやりとりも同時に紹介しておきましょう。

函南「ティーチャーを撃墜すれば、何かが変わる?運命とか限界みたいなものが」
草薙「そうね、でも彼は誰にも落とせない」
函南「なぜ?」
草薙「私たちどこの誰と戦ってると思う?」
函南「さあ、考えたこともない」

ここで注目しておきたいのは、草薙の「私たちどこの誰と戦ってると思う?」という問いです。なぜなら、これこそが物語上でずっと明らかにされていなかった部分だからです。この問いは、「なぜキルドレという存在がいるのか」という問いとも関連してきます。

それでは、その後の草薙が何を述べたのかを見てみましょう。

戦争はどんな時代でも完全に消滅したことはない。
それは人間にとってその現実味がいつでも重要だったから。
同じ時代に今もどこかで誰かが戦っているという現実感が人間社会のシステムには、不可欠な要素だから。そして、それは絶対に嘘では作れない。戦争がどんなものか、歴史の教科書に載っている昔話だけでは不十分なのよ。本当に死んでいく人間がいて、それが報道されて、その悲惨さを見せつけなければ、平和を維持していけない。平和の意味さえ認識できなくなる。空の上で殺し合いをしなければ生きることを実感できない私たちのようにね。
そして、私たちの戦争は決して終わってはいけないゲームである以上、そこにはルールが必要になる。例えば、絶対に勝てない敵の存在。

草薙が述べたことをまとめると、キルドレたちは、「人間社会のシステム」を維持するために作られた「決して終わってはいけないゲーム」のプレイヤー(駒)であるというわけです。ここで言う「絶対に勝てない敵の存在」とは、その後に函南が応答しているように「ティーチャー」のことです。そして、「絶対に勝てない敵=ティーチャー」が存在する限り、永久に終わらない戦争に戦闘機パイロットとして参加し続けなければならない、というわけです。

彼女の述べたことに従うと、長らく函南が疑問を抱いていた戦闘機の前任者である栗田仁朗について、周囲の人たちからはぐらかされていた理由も明らかになります。みんな目を背け続けていたわけです。あるいは、一種のタブーのようになっていたのかもしれません。これは、三ツ矢碧と函南との会話での「もう一度違う人間として再生して新しい記憶を覚えさせてあなたが作られた。あなたは仁朗の生まれ変わり。そうしないと彼の持っていたパイロットとしてのノウハウが失われるから。兵器としての性能が失われるから」という指摘と、戦闘で撃墜されたパイロットの湯田川とそっくりな髪型と癖のパイロットが赴任してきたことによって、明瞭になります。

さて、これらのことを踏まえると、ある疑問が浮かび上がってきます。なぜ、草薙はこのようなことを函南に明らかにしたのか、という疑問です。この疑問を明らかにするヒントは、すぐ後のシーンに隠されています。

草薙が抱える苦悩

先ほどのシーンの直後に、喫茶店の帰り道の車内で、草薙は「殺してほしい?それとも、殺してくれる?さもないと、私たち永遠にこのままだよ。」と函南に問い詰めて、抱擁しながらキスをするシーンがあります。これがヒントです。

この時に想起されるのは、函南の前任者である栗田が、彼女に殺されたということです。そして、先ほど述べたように、栗田の生まれ変わりが函南です。とするなら、栗田にも前任者がいたはずで、草薙は同じタイプのキルドレと何人か接してきていることが推測されます。

実は、映画の中で、人数こそ明らかにはされませんが、草薙が草薙として生きている期間が明らかにされています。一つは、栗田が赴任してきたのは、函南の赴任する7ヶ月前だということです。そして、これが驚くべきことなのですが、同じ基地に働く整備士の笹倉によって、草薙はおよそ8年前からその基地にいることが明らかにされるのです。とするなら、彼女は何度も同じようなことを繰り返してきているに違いありません。恐らくは、栗田以前のキルドレも、同じような顛末を迎えた可能性があります。

これに対して、函南が函南として生き始めたのは、ほんのわずかです。にも関わらず、彼女は函南にあのようなことを打ち明けました。一体それはなぜなのでしょう。

(C)森博嗣/「スカイ・クロラ」製作委員会

真相解明まで、もう少し回り道をしましょう。先ほど登場した三ツ矢は、こんなことを言っています。

あなたたちキルドレは年を取らない、永遠に生き続ける。
最初は誰もそれを知らなかった。知っていても信じなかった。
でもだんだん噂が広がっていく。戦死しない限り死なない人間がいるって…
分からない。私もキルドレなのかしら?
今あなたに話したこともどこで聞いたのか何で読んだのか本当のことなのか、どことなく何もかも断片的な感じがするの。
自分が経験したことだっていう確信がない。手応えが全然ないの。
私だけがキルドレじゃないなんて、そんな都合のいい話ってないよね?
いつから私は飛行機に乗ってる?いつから人を殺しているのかしら?
いったいどうして、いつどこからこうなってしまったのか毎晩思うんだ
思い出せない、思い出せない。考えても考えても、子供のときのことが決まったシーン以外何も思い出せないの。

彼女は、自分がキルドレであることに対して違和感を感じているのでしょう。まるで、思春期の子供が抱く葛藤のようです。彼女の必死の訴えに対して、函南は「面白い発想だね」といってのけます。実は、先ほどの草薙の長ゼリフの直前にも、同じセリフを発しています。つまり、函南は、彼女たちの必死の訴えに対して、まるでどうでも良い空想話であるかのような態度を取っています。

僕の考えでは、おそらく、この態度こそが草薙を突き動かしたのです。彼は彼女の話を軽率に捉えているのではなく、ある種のユーモアを込めてあのような返事をしたからです。

ご存知のように、ユーモアは人を和ませます。例えば、友達に深刻な悩み相談をした時、「なんだ、そんなこと簡単じゃん。悩む必要なんてないよ」と言われた方が案外気が休まるのはこのためです。ユーモアには、ある出来事を相対化させる力があります。

前任者の栗田とは異なったのであろうそのような態度は、草薙の質問に対してカミュの『異邦人』の一節を引用して答えたり、草薙が驚きや戸惑いの表情を表す冒頭のシーンにも見出すことができます。であるからこそ、彼女は函南と性的関係に入り、二人だけの時はお互いにタメ口で話していたのでしょう。つまり、函南は、栗田以前のキルドレとは違ったわけです。

さらに、このことを裏打ちするセリフとして、草薙が函南に向けた「もしかして…君も殺して欲しい?」というセリフがあります。「君も」という部分で示してるのは、前任者である栗田以前のキルドレが「殺して欲しい」と願っていたということが容易に推測できます。これに対して、函南は、後のシーンでも明らかなように、「今度はあなたが私を殺してよ…お願い」と懇願する草薙に対して、函南は「生きろ」と言うわけです。

もうお分かりですね。草薙は、同じタイプのキルドレから生まれた彼らに恋をしていたのです。そして、函南は、ユーモアを備えているという点で、これまでのキルドレとは違いました。それはつまり、三ツ矢のようにキルドレであることに葛藤していないということであり、不条理な現実から距離を取っているということであり、草薙と同じ地平の上に立ったということです。でなければ、函南は三ツ矢と同じように、嘆き狼狽えていたことでしょう。だからこそ、函南は草薙に「生きろ」と言うことができたのです。

このように考えてみると、三ツ矢は、かつての函南、つまり栗田のような存在(あるいは、栗田より以前のキルドレ)であり、函南と草薙との違いを際立たせていることが分かります。

押井が伝えたかったこととは?

さて、以上を踏まえると、函南がティーチャーに向かって戦った理由はもう明らかですね。結局のところ戦争はなくならず、その意味では自分たちの奮闘は無に帰してしまい、それはおそらく、ティーチャーが撃墜されたとしても同じです。その意味での世界の本質は永遠に変わらないけれど、何かを変えられないわけではない。むしろ、何かを変えることにこそ、我々が生きていることの意義がある。だからこそ、函南優一としての生をまっとうすることを通じて、その可能性に賭けることにこそ、生の最大の意義がある。函南はこのように考えていたのではないでしょうか。

それでは、この映画を通じて、押井が伝えたかったことを僕なりに整理してみたいと思います。

一見、この物語は、架空の世界を舞台にしていて、僕たちの現実世界と全く関わりがないかのように見えますが、よく考えてみれば、そんなことはありません。例えば、草薙が長セリフで語ったことは、現実世界にも適応できると思います。特に、押井は、平和ボケをしている日本に対して批判的な立場で語ることも多いので、現実世界を意識して作られたことは間違いないでしょう。

この映画のポイントは、「ティーチャー」が撃墜される時のキルドレを描くのではなく、その過程に至るところを描いているという点です。前者であれば、爽快な革命映画になっていたことでしょう。にも関わらず、押井はこれを描きませんでした。それは、現代日本の停滞や閉塞感をちゃんと反映させているからであり、そこで苦しみながら生きる若者に対して、爽快な革命映画は、自分たちの実感とはかけ離れたものとして理解されてしまうからだと思います。

つまり、結局は無に帰してしまう世界の中で、どうにもならないような状況にぶつかり、生きる意味を見出せなかったとしても、何かを変えられる可能性はあるのだから、そのために全力で闘うことにこそ意味があるのではないか。僕には、押井がこのように述べていると思います。

とはいえ、「こんなことで今時の若者は苦しんでないよ」という批判があるかもしれません。確かに、その通りです。どこかの社会学者も、現代の若者は、貧困率がとても高いにも関わらず、幸福度はとても高いという研究を出していました。ですが、ここで押井が対象としているのは、ある種のまともさを備えた人間だと思います。分かりやすく言えば、生きることの意義みたいなものを追求してしまうような人間たちに向けて作られているはずです。それは、これまでの押井作品を見てみても、押井の作家性として現れているように思います。その意味でいえば、現代日本を幸福に生きられる若者ではなく、何か物足りなさを感じてしまう若者にこそ、この映画は作られたといっても良いでしょう。

したがって、「こんなことで今時の若者は苦しんでないよ」という批判は、少し見当違いな批判ではないかと僕は思います。そんなことを言ったら、いつの時代にも、押井的な意味において苦しんでいない人はいるはずですから。

少なくとも、僕には押井のメッセージが強く心に刺さりました。

noteでのメディア活動は、採算を取れるかどうかに関わらず継続していくつもりです。これからもたくさん記事を掲載していきますので、ご期待下さい。