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中世暗黒時代:文明論的世界史の視点から

ヨーロッパ中世の成立

紀元前3500年頃、メソポタミア、つまり中東で文明が始まった。もちろん、それまでにも都市はあったのだが、それぞれ、せいぜい人が歩いて行ける範囲に限定されていた。これを変化させたのは車輪の発明だ。それまでも馬に鋤を引かせて耕作していたが、車輪によって荷車が作られ、これを馬に引かせることで、物資交流の範囲、そして中心都市の支配領域が飛躍的に拡大した。その後の数千年、黄河文明も、ローマ文明も、この古代の馬車時代から出るものではなかった。

一方、北方中央アジアの大草原では、紀元前千年頃から、遊牧民が直接に馬に乗る技術を獲得した。これは、つまり人間が馬の全力疾走と同じ速さ、およそ時速60キロで移動できるようになったことを意味する。おりしも、トルコのヒッタイトが原因不明の大災厄で崩壊し、彼ら独自の鉄器技術が周辺諸国にも伝播。遊牧民は鉄で鞍やハミやアブミ、蹄鉄などの馬具を工夫し、さらには騎乗弓射という驚異的な戦闘までも可能にしていった。

遊牧民たちは、乗馬の行動力と戦闘力によって勢力を拡大。四世紀には、そのひとつ「フン族」が西のヨーロッパ北部を襲撃する。現ポーランド周辺にいたゲルマン人の多くが 375年、ローマ帝国へ南下避難。もともと分割統治で混乱していたローマ帝国の西半は、この大量の亡命移民とその攻撃によって衰退し、五世紀末には消滅してしまう。やむなく、代わってキリスト教のローマ普遍(カトリック)教会が、宗教組織ながら行政機関を兼ね、ローマ教皇を中心に「ヒエラルキア(神聖管理)」を行うことになる。

中世暗黒時代

カトリックは、強固な原罪説、すなわち、人間が知恵の実を食べ、独善的な判断で神の定めた摂理を乱し、楽園を失なった、と考えており、救世主イエス、および、その権威を継承する教皇に従って、人々は愚直、寛容、奉仕に努めるべきだ、としていた。このため、人々は教会の鐘の聞こえる街や村にのみ集住し、その外には山賊とオオカミと悪魔魔女の暗い森が拡がるばかり。教会の外に救い無し、とされ、教会に逆らって街や村を追われれば、実際、森の中の死しか残されていなかった。

文明は、ローマ時代よりも、はるかに後退した。建物なども、ローマのアーチやドームの技術は失われ、石積みに木造の小屋掛けがせいぜい。ところが、農業だけは奇妙な発展を遂げた。ゲルマン人は以前、パサパサした大麦の粥を主食としていたが、旧ローマ領内にはローマ人の小麦畑が残されており、グルテンの多い小麦で作ったパン食へシフト。大麦はブタの餌となった。耕作に馬と車輪付きの鋤を使い、春蒔き大麦畑、秋蒔き小麦畑、そして休耕地を交代させる三圃制で地味を維持、さらに、ブタを大麦や森のどんぐりで肥育。かくして、食糧事情は劇的に向上、人口も増え続けた。

しかし、彼らとは反対に北上避難したゲルマン人、いわゆるノルマン人は、平坦な耕作地のほとんど無い峻厳なスカンジナビア半島にあって、現ポーランド周辺にいたころよりも貧しい生活を強いられていた。海を生かして漁労や交易に従事したが、かつては同類だった集住ゲルマン人から足もとを見られ、不当な扱いを受けることも少なくなく、さらに8世紀頃になると、ゲルマン人は、教会と手を組み、異教徒征伐と称して、ノルマン人の港を侵略してくるようになった。

ノルマン人は船を改良し、ヴァイキング(襲奪)船を造り上げた。これは、底の平らな箱船の前後両側に反り上がった同じ竜骨船首をつけたような奇妙なボートで、船長20メートルもありながら、喫水は80センチ程度とやたら浅く、中央の一本マスト以外には船室もなにも無い。これに百人近くが乗り込み、推進は横帆か、オールを使った。箱船は、水深の浅い川なども遡上できるが、外洋では風に流されてしまう。だが、この船は、外洋では、乗員や荷物を後にずらし、船尾竜骨部を沈めてキール抵抗にすることで帆が受ける力を生かすことができた。

そもそもヴァイキング船は、それまでの戦艦とは運用方法が根本から違っていた。ローマやフェニキアなどの地中海のガレー船では、漕ぐのは奴隷で、左右三段、計数百名が櫂を握った。いまだ大砲が無かったため、戦闘はもっぱら船体突進で、船首下に付けた衝角と呼ばれる大型のツノで敵船の横腹に穴を開けた。これに対し、ヴァイキング船はもとより衝角を持たず、漕手の乗員が敵船に乗り込み、もしくは、敵地に入り込み、白兵として戦った。つまり、ヴァイキング船は、戦艦ではなく、急襲揚陸艦。彼らは、ネイヴィ(海軍)ではなく、世界最初のマリーン(海兵隊)だったのだ。

わずか数隻で大隊規模(数百人)のヴァイキングが突然に現れる。それも、川を使って内陸側から襲撃してくる。これにはゲルマン人も為すスベもない。ノルマン人は、イングランド、フランス沿岸、さらにはイベリア半島を回ってイタリア半島まで進出。また、東欧やロシアでは、川をつたって、黒海やカスピ海にまで達した。 911年、彼らはセーヌ河を遡って内陸の首都パリに迫り、フランス(西フランク王国)は、キリスト教への改宗とフランス王への臣従を条件にブルターニュ地方をノルマンディー公国として割譲。さらに、彼らはローマ教皇の傭兵として東ローマ帝国が支配していた南半イタリアとシチリア島を略奪し、1059年、カラブリア公国として認められる。さらに1066年、ノルマンディー公みずからイングランドを征服、ノルマン朝を開いた。

棄民政策としての十字軍

ところで、中東では、7世紀にできたイスラム教ができたものの、メッカの名家ウマイヤ朝カリフ(代理人)の支配が続いた。しかし、8世紀になると、ムハンマドの一族こそが指導者となるべきであるというシーア派が現れる一方、もともとの部族制や、イスラム教独特の中心無きスンニ(慣行共同体)主義が加わって、統一性を失っていく。この混乱の中、 750年、ムハマッドの叔父の子孫がカリフとなってアバース朝を建てる。しかし、これも部族連合程度の意味しか持たず、各地にカリフが乱立。それぞれ、中央アジアの騎馬遊牧民諸族を傭兵として利用するようになる。

だが、1038年、その騎馬遊牧民のセルジューク族が、スルタン(権威者)として、みずから中東に国を建てて勢力を拡大し、東ローマ帝国に迫る。1095年、皇帝は、ローマ教皇に傭兵支援を要請。このころ、ヨーロッパは、食糧事情の向上で人口が当初の1.5倍にも膨れあがっており、くわえて、北方から襲来したノルマン人のために、分け与えるべき領地も無く、もはやパンク寸前だった。教皇が十字軍によるイェルサレム奪還を呼びかけると、翌春、民衆十万人が暴徒となって小アジアになだれ込み、あえなく撃退される。

96年夏、正規の第一回十字軍として、トゥールーズ(南仏)伯レーモン(簒奪)、下ロレーヌ(現フランドル)公ゴドフロワ(皇帝派)、カラブリア(南半イタリア)公太子(ノルマン人)ボエモンという訳ありの三人を中心に、諸侯がばらばらに出発。コンスタンティノープル市に集合の後、民衆十字軍残党を取り込み、97年春に進撃。イスラム側は、部族対立に加え、各部族内でも共同体の意思統一が難しく、初動に遅れる。97年秋から翌春にかけてアンティオキア攻略、99年夏、ついにイェルサレムを奪取。ここに下ロレーヌ公ゴドフロワを中心に植民地イェルサレム王国を建て、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサと東方貿易を始める。

これによって、ヨーロッパに商業の復活が起きる。もともとヨーロッパの中心、シャンパーニュ地方の諸都市は定期的な年市で賑わっていたが、これとは別にヨーロッパを縦断するいくつかの商業路ができる。一つは、トゥールーズからボルドーへ抜け、海路イングランドへ。もう一つは、フィレンツェ、ミラノ、そしてゴッダルト峠を越えて、チューリッヒ、ブルゴーニュ、フランドルへ。

じつは、これらはいずれも旧ノルマン人の勢力圏であり、十字軍で東方植民地を得たトゥールーズ公や下ロレーヌ(フランドル)公の領地にほかならない。くわえて1129年、聖堂騎士団のアンジュー伯フルク五世が下ロレーヌ公系の娘と結婚してイェルサレム王となり、同年、その息子ジョフロワ四世がノルマン朝イングランド王の娘と結婚、アンジューの北のノルマンディー公領も手に入れる。孫のヘンリー二世は、1152年、南のアキテーヌ女公と結婚して、同地も合併。その隣は友邦トゥールーズ。さらに、54年にはイングランド王位を継承して、プランタジネット朝を開く。かくして、南仏からイングランドまで連なる「アンジュー帝国」ができあがる。

1169年、中東内陸山地遊牧民クルド族出身の有能なエジプト・ファーティマ朝行政官サラディンが、スルタンとしてアイユーブ朝を創始。イスラムらしからぬオリエント的な絶対王権で十字軍植民地への反撃を始める。続いて13世紀になると、巨大なモンゴル帝国が西進し、かつての「フン族」と同様、現ポーランドにまで攻め込んでくる。一方、ヨーロッパでも、パリ周辺のみの小国となったフランス王国と巨大アンジュー帝国との関係が悪化し、フランス王ルイ9世は、アンジュー伯領を名目的に没収し、47年、自分の弟に「アンジュー伯」、46年に「プロヴァンス伯」、66年に「シチリア王」の肩書を与える。しかし、シチリアはスペインのアラゴン王が支配しており、彼はナポリを持つのみだった。

百年戦争とルネサンスの端緒

1291年、ヨーロッパは東方の地を完全に失った。これを機にフランス王フィリップ四世は、旧ノルマン系の商業路奪取を図る。まず1303年、フランス王はローマ郊外アナーニ村で教皇を襲撃。1307年には、商業路を握る聖堂騎士団員を逮捕処刑。08年、教皇庁を強引にトゥールーズ伯国内のアヴィニョンに遷す。14年、次いでシャンパーニュ伯から王になったルイ10世は、むしろ重税で同地の年市をダメにしてしまう。しかし、フランス建国以来のカペー朝も、23年に断絶。これをヴァロワ伯が継いだが、本アンジュー伯家(イングランド王)も継承権を主張。かくして、1337年、百年戦争となる。これは、実質的には、旧ゲルマン系と、十字軍で伸張した旧ノルマン系の対立にほかならない。

百年戦争と前後して、帰還した十字軍兵士や略奪した東方物資から、さまざまな疫病が広まった。イスラムは、もともと南方の広域で交流貿易しており、疫病の危険が高かったが、コーランの教えに従って一日5回の礼拝の都度、手足を洗い、ウガイをすることで、これを抑え込んできた。一方、ヨーロッパは、衛生観念が無く、糞尿を道に投げ捨て、死体を街の広場に土葬して、その上で市を開くようなありさま。これで疫病が広まらないわけがない。とくに1347年には、中国やイスラムでも甚大な被害をもたらしたペストがシチリアに上陸。数年にわたってヨーロッパ中で猛威を振るい、人口が半減するほどの被害となった。人々は、歌や絵に「死の舞踏」を採り上げ、教会に対する絶望感を募らせた。

ヴァロワ家フランス王ジャン二世は、ナポリに新アンジュー伯家があるにもかかわらず、56年、次男にも第三の「アンジュー伯」の肩書を与える。また、63年、末子フィリップに、断絶したブルゴーニュ公を継がせ、これが69年にフランドル女伯と結婚、かつて下ロレーヌ公が十字軍で築いた商業路へ支配を拡げて繁栄していく。この関係で、ブルゴーニュ公国は、ヴァロワ家系であるにもかかわらず、もうひとつの商業路を握る本アンジュー伯プランタジネット家(イングランド王)と結び、フランス王家を東西から挟み込んで圧迫。

十字軍の失敗と疫病の蔓延で教会権威は失墜。くわえて百年戦争で、北フランスは混乱。その一方、フィレンツェ・ミラノ・ブルゴーニュや、トゥールーズ・アキテーヌ、つまり、かつてのノルマン移民地域は、とってつけたようなゲルマン的教会支配を払拭し、中世の秋の繁栄を謳歌。14世紀後半になると、アヴィニョン(トゥールーズ内)のペトラルカやフィレンツェのボッカチオが恋愛を詩や物語に詠い、ブルゴーニュでも茶番のような恋愛騎士道が大流行。フィレンツェなどにはメディチ家をはじめとする金融業が出現。こうして中世が終わっていった。

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