#31 材料を入れる順番が、カレーの仕上がりにどんな差を生み出すのか。【図解】
本稿ではプラトンのカレー想起説に触れた後、インドカレーとネパールカレーの材料を入れるシークエンスの違いを図解を交えつつ浅く考えてみます。
それにしてもカレーは懐が広い。カレーの楽しみ方は本当にひとそれぞれだ。ターメリックを身体に塗りたくるもよし、タッパーに入れて散歩に連れて行くもよし。2つのカトリにカレーを入れて、片方だけに一ヶ月間ずっと「ありがとう!」と言い続けるのもどうだろう。
しかし一番メジャーな楽しみ方はやっぱり食べることと、作ることだと思う。そしてひとくちにカレーと言っても世界には千差万別なカレーがあり、カレーを知れば知るほど知識の網の目が細かくなり、世界に認識できるカレーが増えて行く。
プラトンのカレー想起説
どうして人間は、見た目も香りも、味も食べ方も、バックグラウンドも異なる別個のカレーを全て共通するカレーだと認識できるのだろうか。
プラトンならこう言っただろう。
プラトンちゃん「個別のカレーを我々人間が認識できるのは、天界に<カレーのイデア>があり、それを分有しているからだ」
我々の目の前にあるのはそれぞれ個別のカレー、名前をつけるのならばそれはエチオピアの20辛チキンカレーであり、グシュタバであり、ダルバートである。全部ぜんぜん違う料理なんだけど、食べる側が勝手にカレーに分類する。なぜこれが「カレー」だとわかるのか?ある個物が<カレーのイデア>を分有していることは、かつて魂が天界にいた頃に見た<カレーのイデア>を思い出すことでわかる。これをプラトンのカレー想起説という。
プラトンちゃん「・・・僕たちが天界にいた、あの頃のこと思い出せる?<カレーのイデア>、なんかとっても懐かしいよね。。。」
いや、そんなわけないでしょ。カレーのイデアって何やねん。
カレーの完成形があるはず、理想のカレーがどこかにあるはず、みたいな発想は危険だ。インドにカレーを追い求めても見つからないし、自分を探しに行ってもそんなのはいない。
でも本当にプラトンが言いたかったのはイデアが実際あるかないか、ではなくて、真のイデア、善のイデア、美のイデアという概念を提示することで議論の出発点を示すことだったのではないだろうか?
カレーの議論をするときも、知らず知らずのうちに<カレーのイデア>を想定して話している。実際いまの日本で語られているカレーはバラバラすぎて<カレーのイデア>のような概念なしでは語れないものになっている。
ところで僕がカレーを作るのは、カレー屋をやりたいとかカレーで世の中を変えたいとかではなくて、単純に面白いからだ。特に、カレーを作ると同じ材料を使っても入れる順番や加熱時間が違うだけで全く違った味わいになる。そういうアレンジの自由自在なところも特に面白いと思う。
特徴的な一例であげたいのがインドとネパールのチキンカレーの作り方の違いだ。去年ネパールで教わったチキンカレーが、材料は同じでも入れる順番が違うことで、全く違う仕上がりになった。
このことについて、心のわだかまりがずっと残っていたので今年のうちにすっきりさせておきたいと思い、今回は筆をとったんであった(実際はキーボードを叩いている)。
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