こじらせた男はなぜスパイスでカレーを作り始めるのか?(カレーのパースペクティブ #1)
「カレー」とは一体なんなのだろうか?
カレーが好きな人は、なぜか決まってそういうことを言い始める。カレー粉を使っていたらカレーなのか?スパイスを使う料理は全てカレーなのか?インドにカレーはないのか?いや、インド亜大陸の料理は全てカレーなのか?
カレーを知れば知る程、わからないことが増えていく。カレーには正解がない。まるで人生みたいだ。
「カレーは哲学だ。」実際にそう言う人もたくさんいて、確かに答えは無いながらも自分にわかることを一つずつ積み上げていき、ロジカルに解を導き出していくプロセスは、哲学とカレーに共通するものがある。
どんなに調理科学を習得しようが、カレーの歴史を紐解こうが説明できない領域がカレーにはある気がしていて、それを哲学の力を借りて本気で考えていきたい。自分のアカウント名の「カレー哲学」には、そういう意味を込めている。
カレーのパースペクティブとは
ところで、「哲学カフェ」という活動がある。1992年にフランス・パリのカフェで偶然生まれた活動で、街中のカフェなど誰もが自由に出入りできる場所で、飲み物を片手に参加者同士で特定のテーマについて話し合う営みのことをいう。(カフェフィロwebサイトより)
ふとしたことがきっかけで哲学カフェを開催されている方と知り合い、カレーを哲学的に色々な角度から考える「カレーのパースペクティブ 」プロジェクトが始まった。
カレーが好きな人たちと哲学が好きな人が集まって、いろいろな角度からカレーについて対話を重ね、探究していくプロジェクト。
カレーの専門家に限らず、様々なバックグランドをもった人たちが集まりカレーについて意見交換をすることで、今まで考えてもみなかったようなカレーの一面がポロリと見えたり、別に見えなかったりする。
そもそもは一度限りのオフラインイベントだったはずなのだが世の情勢を踏まえ延期に。先の見通しが立たない中だが、まずはカレーのZINE(同人誌)を作ることになった。
個人的に「この人の書いた文章を読みたい!」と思ったカレーな人に声をかけさせていただき、約20名のカレーな原稿が集まった。
内容は家庭のカレーからマニアックなインド料理まで網羅していて、なかなか興味深い。これを読んだところで別に美味しいカレーも作れるようにならないし知識も増えないのだが、カレーとはつまり様々なパースペクティブから見た幻想の寄せ集めなのかも知れない、などと考えたりすることができる。小部数だけ発行するつもりだが、ダウンロード版も作ったりするかも。
で、せっかくなので寄稿いただいた方のカレーの話をもっと深堀りつつ、カレーについて考えていけないか?ということになり、定期的にオンラインでイベントを開催することになった。イベントの収益はZINEの作成費用に回す。
前置きが長くなったが、その第一回が6/6(土)に開催された。
このnoteは、カレーにまつわる哲学対話の個人的なアーカイブである。
Q:こじらせた男はなぜスパイスでカレーを作り始めるのか?
今回は初の試みにも関わらず運営合わせて18名の方が参加してくださり、それだけ多種多様な意見が伺えた。まずはじめにこの対話の趣旨を説明し、一人ずつ自己紹介を回していく。
やはり独特の間があるが、慣れればそう違和感はない。自分が喋っている時に無音になるのはいまだに落ち着かないが。
ルール
カレー×哲学対話のルールとしては、哲学対話の手法を応用する。
・哲学対話とは、テーマを決めてフラットに話し合う対話の手法。
・これはディスカッションではなく対話なので、結論を急がずにいろんな角度からテーマについて考える。発言は自由で、ただ聞いてるだけでもOK。他の人を批判したり茶化したりする発言は禁止。
・カレーの専門的な話や、哲学の専門用語はわからない人がいる前提で、わかりやすい言葉を使うこと。
・途中で意見が変わってもいい。気の利いたことを言う必要はない。
・考え方は人それぞれだが、それで終わらせない。
話題提供:カレー作りは「救い」
カレー×哲学対話では毎回誰かが話題を提供し、それに関して話し合っていく。
第一回の話題提供者はカフェフィロの代表も務められている山本和則さん。「なぜこじらせた男はスパイスでカレーを作り始めるのか?」というテーマで、それに関連する考察がまず話題として提供された。
スパイスからカレーを作ることがじわじわとブームになっているが、カレーによって「救われて」いる人たちが少なからず存在するという。
「救済」の経緯は様々であるが、スパイスでカレーを自作することがそのきっかけになっている人も少なくないだろう。何を隠そう、私もその一人だ。私がスパイスからのカレー作りを始めた時期は、今振り返ると人生における辛い時期と重なっており、カレーを作ることで癒されていったように感じる。
SNSなどを見ていると、スパイスでカレーを作るブームの裏側に、それぞれの「癒し」の物語があるように思えてならない。
スパイスから作るカレーの持つ癒しの力とはなんだろうか。山本さんは辛かった時期、スパイスからカレーを作ることで段々と元気になっていったという。
そもそも「癒し」というのは何だろうか。対話の中で、恋愛や仕事で失敗した人がカレー沼にハマってしまう例を度々目撃しているという話を聞いたが、望んでいる人に受け入れてもらえなかったり何かのきっかけで自分を否定され/してしまった人は傷つき、周囲の世界や他者へうまく応答できなくなってしまう。周囲との関わりを固定化し拒絶することで自分を守るのである。
そんな傷ついた魂が再び自分を取り巻く世界に応答し、新たな自己を生成・変化させ、固定化された世界との関係を変えていく。そのために有効なのが「何かをイチから作ってみる」というDIY精神にも通じるプロセスだ。普段は専門家任せにしているような、例えば食品メーカーに委託しているカレールウに頼らず、スパイスからカレーを作ってみる。そうやって新たな自分に出会うことは回復や癒しに繋がるのかもしれない。
自分で「何かをイチからやってみる」という「Do It Yourself」は、そもそも第二次世界大戦で廃墟と化したロンドンの街を自分たちで復興させようという国民運動のスローガンである。荒廃した心と街。癒しと復興には、確かに通ずるものがあるかもしれない。
まあ何かをイチからやってみるだけなら別に他の料理や大工仕事などでもいいのだが、カレー作りは他にも癒しにつながりやすい要因があげられる。
・「難しそうだが実際は簡単」というギャップ萌え
カレー自体には親しみがあるので始める心理的ハードルは低い上に、作ってみると満足感がすごい。
・カレーの懐は広い。
例えばそば打ちは喉越しや茹で具合など、ある程度理想とされる蕎麦の評価軸が決まっているのに対し、カレーには無数の評価軸があり、正解がない。「カレー」自体が、実態のないなんだかよくわからないものである。
・スパイスで身体的にも気分が上がる。
スパイスは何か危ない成分でも入っているんじゃないかというくらい依存性がある。前回のnoteで唐辛子についても書いたが、血行が良くなったり消化が促進されたりするので健康にもいいし、脳内麻薬も出ているらしい。香りのアロマ効果も期待できるのではないか。
・探求への道に開かれている
「カレー沼」という言葉が指し示すように、カレーは裾野が広く手を染めやすい割には奥がものすごく広く、それぞれの人がそれぞれの楽しみ方をできる。食べるや作るにとどまらず、コミュニティで交流したり、カレーを巡る冒険の旅に出かけたり、こうやって対話で考えたりできる。そうやって新たな自分が作られることが癒しや回復に繋がる。
そして最後に残されたのは「こじらせた男」の問題。
カレー作りはマニアックな男性が趣味として取り組むイメージが強いが、実際は女性で作っている方もかなりいると思われる。生活としてのカレーと趣
味としてのカレーについても考えたい。
以上が今回提供された話題で、これらに関連して対話が行われた。
対話
対話というものは、必ずしも直線的には進まない。
行きつ戻りつし、同じところをぐるぐると循環したりすることもある。でもそれで良いのだ。これは答えを出すためのものではないのだから。
やや断片的になってしまうが、行われた対話の中で印象的だったことや、自分で考えたことをいくつか書いてみる。
没頭することによる癒し
カレー作りの中でも最も癒されるのは玉ねぎ炒めかもしれない。ただ無心に、玉ねぎが飴色になるのを観察する。そうやって時間をかけて一つのことに取り組むことは癒し効果がある。「玉ねぎを炒めているときが本当の自分になれる気がする」とはよく言ったもので。
カレーと同じように没頭でき、癒し効果があるものに縫い物、味噌作り、パン作りなどがあげられる。何か一つのことに時間をかけて向き合い、「今、ここに」没頭することはマインドフルネスや禅の考え方にもつながり、確かに精神的に落ち着く効果がありそう。
禅の修行で作務というのがあり、掃除などの日常のつとめに淡々と取り組むことそれ自体が修行の一環であるという。縫い物や編み物などもそうだが、単純な反復作業を淡々と丁寧に繰り返していくことで忘我の境地というか、ゾーン状態に入るのではないだろうか。同じ所作をこなすことで却って自分の状態が明らかになり、自分のことを見つめ直す時間になる。
味噌作りやパン作りは少し違っている。それらから得られる癒しは何かを「育てる」ことから得られるものであり、異なる時間軸にいる生きものを扱い、物語的な時間に触れることで得られる癒しである。
江戸時代の人が一生かけて処理する情報量を現代人は1日で処理しているという。情報に追われている忙しない現代人は、異なる時間軸に触れるコトで癒しを得ているのではないか。
ソシャゲとカレーの共通点
カレーの香りは刹那的だ。スターターオイルに唐辛子やクローブ、カシアなどを入れてじっくり加熱したときの香ばしい香り、ターメリックやコリアンダーパウダーを加えたときの奥深さを含む香り、仕上げのテンパリング時の瞬間的に立ち上る刺激的な香り。また、当たり前だがカレーは食べるとなくなってしまう。
そんな刹那的で一回的なカレーは「作品が残らないアート」であり、ソーシャルゲームとの共通項を見出せるという。
どういうことか。何も形が残らないからこそソーシャルゲームに喜んで課金する人がいる。ものに溢れ、SNSで今まで見えなかったものが可視化されていき欲望がミニマリズム化している現代、形が残るものを買うことよりも、ソーシャルゲームを課金ブーストさせることで後腐れなく、手っ取り早く快楽を得たいという心理はわかるような気がする。
こうしてみてみると確かに、食べるとなくなってしまうカレーの儚さと、リセットすれば消えてしまうソーシャルゲームの儚さには共通している部分がある。現代社会の消費の傾向は「モノ消費からコト消費」と言われているが、カレー屋さんでカレーを食べることはまさにコト消費、体験の消費と言えるのかもしれない。自分もそうだが、なるべく荷物は増やしたくないし10万円あったらテレビを買うより旅に出たい。
正直ソシャゲとカレーの共通点は自分の中でもまだ消化しきれていない。カレーを食べて体験として瞬間の快楽を味わうこととソシャゲの刹那性には共通点があるのかもしれないが、カレーを作ることに関しても同じことが言えるのかはよくわからない。引き続き考え続けたいと思うし、今後の哲学対話の中でもテーマとして深堀が行われると思う。
スパイスで作るカレーと男性性の問題
カレーに関する男女の関わり方の違いの話題は、一概に言えないし性別だけで論じるのは乱暴な気がする。変態的にカレーばかり食べる女性もいるし、知っている男性の多くは食には保守的だ。
対話の中で、小さなお子さんがいる主婦の方はカレーを作ることは「生活」になってしまい、全く癒しにならないという話を聞いた。確かに、誰か食べる人がいるときはあまりにも挑戦的なカレーを作るわけにはいかないし、実験や新しいことへの挑戦は常に生活と切り離されているし、時間がない中で流暢にレシピを色々試してみるわけにもいかないからなあ...。
趣味としてのカレーと生活としてのカレーという枠組みがあって、それには別に男女は関係ないのかもしれない。
以上三点、取り留めの無いメモのようなまとめだったが、少しで「こじらせた男はなぜスパイスでカレーを作り始めるのか」という問いに対する答えのヒントになれば幸いである。
ところで、インド亜大陸の人はスパイスからカレーを作って「癒された〜」とかいうのだろうか。彼らにとってはそれは日常の動作になってしまうだろう。普段やらないこと、自分の文化から遠い異文化に触れてみることが新しい自分を作り、癒しに繋がるのだとすると、インド人にとっては寿司を作ることは癒しに繋がるのかもしれない。
次回のカレー×哲学対話
次回は6/20(土)18〜20時に開催となります。
テーマは「心のカレー」について。人それぞれに心のカレーがある。ヒアリングをしてみたところ、約50の心のカレーエピソードが集まった。これらを簡易的に5つに分類し、それぞれの心のカレーについての考察を話題として提供する。また、どうしてカレーは人の心を動かすのか、ということについても考えていければと思う。
興味ある方は是非、ご参加ください。
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