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これからのカレー・カルチャー・コミュニティとは with かりい食堂 (カレーのパースペクティブ #6)

かつて高円寺には、夜な夜なクリエイター集団が出入りする、サロンスペース的なカレー屋があったという。

今回はかりい食堂さんからその当時のエピソードを詳しく伺いながら、カレーというカルチャーが作り上げるこれからのコミュニティの可能性について考えた。

カレー自体が一つのカルチャーと言えるのだが、サロン的な場においては、他の何かと掛け合わされることによって、コミュニケーションツールとしての役割を果たしていた。そういう場においてはカレー単体ではなく、カレー×〇〇のように掛け合わせた方が面白くなるのかもしれない。

これだけオンラインが普及している現在だが、オンラインの体験には圧倒的に余白が欠けている。その余白を生み出すことが2020年においても、リアルな場であることの存在意義なのではないだろうか。


第6回「カレーのパースペクティブ 」では、かつて高円寺にあった文化サロン的カレー屋のエピソードを伺いながら、これからのカレー、カルチャー、コミュニティとは?というテーマで対話を行った。

カレーのパースペクティブとは?
カレーについて考える人なら誰でも参加可能な対話イベント。カレーについて、「対話」を通して様々な角度から探究していきます。


過去のアーカイブはこちらのマガジンにまとめてあります。


このnoteは、「カレーのパースペクティブ 」プロジェクトにおいて行われたカレーにまつわる哲学対話の個人的なアーカイブである。



Q:これからのカレー、カルチャー、コミュニティとは?


話題提供者:  増川草介さん(かりい食堂)

今回のゲストは高円寺で「かりい食堂」を経営されている増川草介さん。間借りでの活動期間を経て、昨年の12月に実店舗をオープン。南インドのカレーを中心に据え、インド亜大陸の料理を「カレーライス」としてワンプレート上に再構成した料理を提供されている。カーリー女神をイメージしたという定番のカーリーチキンカレーは手羽元チキンが煮込まれた、芳醇でスパイスフルなカレーだ。


かりい食堂さんのカレー来歴

祖父がコックさんで得意料理がカレーだったという増川さんは、元々料理が好きだった。サラリーマンとして働いている中、まだマイナーだった南インド料理に初めて出会ったのは2006年のdancyuでの特集。渡辺玲氏の南インド料理のレシピを参考にスパイスを買い揃えた。当時はカレーリーフやマスタードシードは入手が難しかったもののなんとか材料を揃え、初めて南インド風のチキンカレーを作ってみて奥様に大絶賛される。 

そこから一気にスパイス料理にハマり、クッキングスタジオ「サザンスパイス」で南インド料理の修行を開始。ちなみに教室の同期には砂の岬(桜新町)やオーケストラ(西荻窪)の方などがいるという。

初めは南インドの定食であるミールスを中心に作っていたが、やがてクラブイベントやライブイベントなどにカレーを提供するようになり、4年ほど前から間借りを開始し、昨年実店舗化に至る。


文化サロン的カレー屋「Oh!India」

増川さんには、今後お店を発展させていく上で目指す一つの姿があるという。それはかつて高円寺駅の南側にあった「Oh!India」というカレー屋。昼間はカレー屋だが夜は音楽イベントをやるようなお店で、デザイナー、ライター、ミュージシャンなどの高円寺カルチャーを担うクリエイター集団、京浜兄弟社の活動拠点の一つとなっていた。

増川さんは大学生だった当時、大学よりも高円寺に通いつめてはそのサロンに夜な夜な参加されていた。ちょうどWin95が普及し始め、PCで音楽を制作したり、インターネットを通じて表現活動を行うといったことが少しは一般的になってきた頃だという。増川さんも編集やライターとして雑誌制作などの活動をされていた。

Oh!indiaのマスターは高円寺で長いこと商売をしていた人で、実業はお米屋さん。カレー屋はその隣でやっている趣味的なお店という位置付けだった。スリランカ人直伝の、当時はまだ珍しかったココナッツミルクのスリランカカレーが美味しかったという。

音楽はモンドミュージック、カレーはスリランカカレー。そういう、メインカルチャーではない「周辺文化」に触れながら、コーヒーを飲んだりお酒を飲んだりしながら談話する。いつでもそこに来たら誰かしら知り合いがいて、いつも何か面白いことが話し合われていて、やがて何かしらの形になっていく。人を介してまた別の人へと緩く広がりがつながっていく。Oh!Indiaは新しいことが生まれる場として機能していたという。



カレーを真ん中に未来が生まれる場所

全く同じ形ではないにせよ、そういうクリエイターの卵のような人たちが集い、新しい活動が生まれる場としてお店を今後発展させていきたい、と増川さんは語る。
「人が集う中心にはいつもカレーがある」。人の集まるところにいつもカレーがある。カレーは人を集める食べ物である。少々スパイスを揃えれば、スーパーで手に入る材料だけでもなかなかおいしいものができてしまうカレーは、身軽いし、人が集まるイベントにもってこいなのだ。

また、カレーならではのストリート感や文化感という雰囲気には何やら抗えない魅力がある。未来は、いつも中心からちょっと外れたようなところにある。そういう周辺的な文化を担う、「〇〇の卵」のような未来ある人たちが集まる真ん中にカレーがあったら素敵だ。


対話

人口減少、新型コロナによる社会環境の変化、オンライン環境の充実、SNSの普及...。これからの時代において、カレーをキーワードに置いた時にどんな共同体やコミュニティが出来上がって行くのか。また、作り上げることができるのだろうか。

今回はかりい食堂の増川さんにお話しいただいた内容をもとに、以下のようなテーマで対話を行った。

・カルチャー要素の強いカレーというものが作り上げる、コミュニティの可能性とは? 
• そもそも2020年代における理想的なコミュニティとは?サロン的な共同体は可能なのだろうか?


カレーはどういった意味でカルチャーなのか

作り手が増えると、それはカルチャーと呼び得るものになる。今までの時代、カレーをイチから自分で作ろうという人々は一部に限定され、生産者と消費者は割と明確に分かれていたのではないだろうか。しかし、現代ではその境界が曖昧になっていると言える。

Oh!Indiaが高円寺にあったころは音楽がDIYの対象になり、自分たちでいいと思う音楽を作り出そうという意識が広がった時代だったのだと思う。現代ではカレーもDIYの対象になり、メーカー既製のカレーをただ消費するのではなく、自分たちでイチからカレーを作ってみようというムーブメントが広がってきている。

「カレー」という言葉が指す対象は多種多様だ。「いわゆる日本のカレー」に限った話をすればそれは大衆に広く浸透しているし、多くの人にとって「普通」というか、既になんらかのベースメントたり得る存在となっている。
「もう少し広い概念のカレー」について語れば、近年生み出されるカレーは「これもカレーなの!?」というような、多種多様、有象無象、魑魅魍魎が広がる状況になっている。「カレー」という根っこは同じでありながらもジャンル毎に枝葉に分かれていて、融合や離反を繰り返しながらどんどん新しいものが生み出されていく。カレーはうねりだ。

かりい食堂さんが修行をしていた当初は、料理教室に通う人たちはマニアックな集団であり、外向きの活動というのはそんなになかったらしい。ここ数年の作り手と食べ手の境界線が一気になくなっていく動きは、目を見張るべきレベルだ。
我々は、そんなカレーのうねりの中に巻き込まれているのかもしれない。

『スペクテイター』第40号でも『カレー・カルチャー』と題した特集号があった。この特集ではカレーは「単なる食べ物ではなく人生に彩りを与えてくれるスパイス」と受け止められている。さらに、近年個性的なカレー専門店が急増している背景を「作り手と受け手の間に何か新しい意識の芽生があるのではないか」と仮定し、カレー店主たちの物語を紡いでいる。

  

カレーと〇〇

カレー単体、では危うい。カレーが名物のお店にカレーを目当てとしたカレーマニアが集まる、というだけでは文化的なコミュニティの発展は難しいのかもしれない。
Oh!Indiaはカレーをメインでやっていたお店ではない。しかし、そのことがサロン的スペースとしてうまくいった理由なのかもしれない。いわば、カレーは中心にありながらもいつもそこにいる「名脇役」だったのだろう。

対象をひとつだけに絞るということの危険性に関して、大学生の時に読んだ『思考の整理学』という本にこんな言葉が載っていた。

ひとつだけでは、多すぎる。ひとつでは、すべてを奪ってしまう。

元はアメリカの女流作家ウィラ・キャザーの言葉を着想や思考法について転用したもの。ひとつだけのことを信じ込んで他のものが見えなくなってしまうことは危険であり、論文やレポートを書く際もテーマをひとつだけに絞らず、2つ3つのテーマを定めた方がかえってうまくいくということを説明している。

カレー単体の追求もいいのだが、「カレー×〇〇」のようにカレーをいい意味でコミュニケーションツールとして使うということ。カレーと何かを掛け合わせることでそこに人が集まり、出入りする人が自然と知り合いになり、新しく作り手となる。

言ってみればこのカレーのパースペクティブも、カレー×哲学という掛け合わせによって、見事に隙間にハマり新しいうねりが生み出された例とも言えるかもしれない。


リアルのカレー屋さんである意味とは

これだけオンラインで活動することが当たり前になったにも関わらず、リアルの場が必要とされる意味ってなんなのだろうか。文化サロンはネット上のコミュニティではやはり完結しないのだろうか。

例えば、シェアキッチンで料理を作り、宅配サービスで料理を届けるゴーストレストランというのもあったりする。概念としてのお店と、実店舗としてのお店は別という考え方だ。間借り、というのも近いものかもしれない。ソフト=お店が抽象的に存在し、ハード=実店舗で具現化する。実店舗があるからお店が存在する、のではなくて、お店があるという前提で客も店員もお店屋さんごっこをしているだけだ。

オンラインでは、身体体験を共有することが難しい。一緒にカレーを食べるという体験ができない。リモートで同じ冷凍カレーを同じ時刻に画面越しで食べる、というのも新たな価値かもしれないが、やはり何か圧倒的な情報量の差がある。

リアルの場には必ず余白が生まれる。何か決められたトピックがあったとしても、前後の時間には雑談が発生する。そういう無目的な時間というものこそ、新たなものが生まれ発展する土壌なのかもしれない。

しばらくは厳しいかもしれないが、居心地がよく、サードプレイス的に自然と人が集まり、ダラダラする中で何か新しいカレーが生まれていく、そういうカレーシェアハウスを作りたいなと自分は思っている。


新宿中村屋サロン


最後になるが、「サロン」と「カレー」というキーワードで多くの人がまず連想するのは新宿中村屋のサロンかもしれない。

新宿移転後、中村屋には多くの芸術家、文人、演劇人らが出入りするようになります。「中村屋サロン」の始まりです。相馬夫妻は芸術に深い造詣を有し、物心両面で芸術家を支援しました。

荻原禄山という彫刻家がサロンの中心となり、彼を慕って多くの人が中村屋を訪れ、いつの間にか芸術家の溜まり場のようになっていたという。

まず余白のある無目的な溜まり場になったことで交流が生まれ、そこから新しいうねりが生まれるのである。

余談だが、自分は新宿中村屋の創始者相馬愛蔵、またサロンの中心人物であった芸術家、荻原禄山とは同郷だ。



次回のカレーのパースペクティブ(8/29に開催済み)


給食の定番メニューであることに加え、絵本や児童書、手遊び・歌にも登場するなど、子どもの周辺には〝カレー〟をモチーフにしたものが沢山あるように思えます。

なぜ、子どもはカレーが好きなのでしょうか?いや、そもそも本当に子供はカレーが好きなのだろうか。そこには、何者かに作られたイメージがあったりしないだろうか?


第7回カレーのパースペクティブでは、「カレーと子どもの親和性」について対話を通して考えたいと思います。


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